生徒を「脅す」教員
〜背景に教員の怯え〜
義務教育の目的は、子ども達が自ら学ぶ楽しさを知り、人生を生き抜いていく為に必要な力を身に付けることが目的である。ところが、義務教育の現場が人生を断ち切る場所になっているのだ。とても不思議である。そして、そのことが重大ニュースとして全国的に報じられることもない。資源の乏しい日本国。国の未来を背負う人材の喪失に国民感覚の麻痺が心配だ。同時に、教員の質の劣化も相当進んでいるのでは、と心配である。
平成29年3月に発生した「福井県池田中学校中2男子生徒校舎3階から飛び降り自殺」。教員による「いじめ」と報じられている。しかし、その内容が凄まじい。これは「いじめ」ではない。「脅し」である。以下は、福井ニュース2017.10.17から抜粋したものだ。
・担任等の男子生徒に対する叱責は、近くにいた生徒が「身震いするくらいの大声」だった。
・再三の厳しい指導や叱責
・母親に「僕だけが強く殴られる」と泣きながら訴えた。
・校門前で怒鳴られた。
・「宿題が出来ないなら、やらなくてよい」というと「やらせて下さい」と土下座しようとしている。
・担任から生徒会を「おまえ、辞めてもいいよ」と大声で怒鳴られた。
これから読み取れるのは、「教育」ではなく「脅し」である。しかも、子どもの健気な精神を踏みにじった行為は許せない。憤りを感じる。
毎回、毎回針の筵に座らせられていた様な自殺した中2の子ども。孤立感、絶望感はいかばりであったものか。これでは大人でももたない。自殺した中2子どもの心情を推し量ればとても心が痛む。「脅し」による自殺の背景を探ってみた。
この教員は何かに怯えている。そして、不安障害を患っているのでは。
生徒を「脅す」ことで自らの不安から逃げようとする姿に映るからだ。被害者は子ども達だ。パワーハラスメントの学校板である。傷害事件として起訴されなかったのだろうか。校長が本件について、一点でも家庭の問題に転嫁する様なことがあっては、学校ぐるみで生徒を「脅し」たと評価できる。子どもの教育を受ける権利は、家庭の問題によって違いは生じないからだ。
「自立心」の弱い教師。
自殺した子どもに対し、執拗に叱責する教員の姿は常軌を逸している。しかし、自分に対する他の評価が気になる。それも教育目的を見失い、盲目的になるほど他の評価が気になるのだ。これは「自立心」の弱い人間に珍しいことではない。その様な教員が全国各地に増えている様な気がしてならない。
受験学力の弊害。
中学、高校が「教育」の場から「受験」の場に変遷しているのだ、その結果、学力は受験に偏り、「内面的価値」、つまり愛情、共感、信頼、想像力などが殆ど培われることがない。そのツケが「脅す」教員をが増やしている様な気がしてならない。
一般市民、生徒、保護者の感性。
教員を責め、その背景を分析することはそんなに難しいことではない。しかし、私が強調したいのは、強化の成績には関心を示すが、教育には殆ど関心の薄い保護者、教員が激増していることだ。これは、「個にして弧ならず」(詳細は私の視点「個にして弧ならず」)今は「群れにして弧なり」。この延長線上の表れと見る。つまり、思考経路が自分とその家族のみに絞られてしまっているのだ。
さらに、執拗に叱責する教員の姿を目の当たりにしている生徒、その保護者達。思いはそれぞれあったろうが、教員の異常さに対して一体どんな行動を起こしたのだろうか。クラスの生徒とその保護者達の無関心ぶりが本件自殺の核心と見る。義務教育の目的は、子ども達の教育を受ける権利である。人権侵害に対する意識があまりにもなさ過ぎる。
「脅す」行為は法整備では改善されない。
国民一人一人の「教育」に対する関心度が分岐点である。同時に民主主義を熟成させ、より幸せな生活を享受する鍵を握っていると考える。
教育の目的である「必要な力」とは、「考える」力である。その為には「表現の自由」の大切さを家庭、学校で日常的に訓練する必要があろう。でなければ、「脅す」行為はおろか、民主主義の土壌はいずれ干ばつに襲われる。
以 上