個にして弧ならず

  「個にして弧ならず」。これは憲法学者奥平康弘さんを悼む、として憲法学者樋口陽一さんが述べたものだ。「個」の確立が民主主義の大前提であると捉える立場からは、この言葉の響きがとても心地よい。「和して同ぜず」にも共通する響きを与える。
  しかし、これを実践するには我が国の風土の中では、まだまだ勇気が必要なことだ。全ては集団が優先するという社会風土、中でも組織風土が根強いからだ。農耕民族は定住、狩猟民族は移住。その違いがそうさせるのだろうか。これでは「みんなで渡れば怖くない」的発想委からの脱却は難しい。
  ところが、ことはここで終わらないのだ。組織の責任者が責任を取らない構造を作り上げる。「個人」より「集団」、客観的「善悪」より主観的に「集団に迷惑をかけたか否か」。つまり、集団を重視、主観的な視点に立つ余り、集団の「責任」追求はとても緩やかになってしまった。
  さらには、民主主義の誤解が深刻だ。定年まで勤め上げた立派な大人が平気で口にするのが、「みんなで決めたのだから」「従わなければならない」というセリフだ。みんなで決めることを重視、決めた内容に視点がいかないのだ。そして、決めた内容に関わらず、決めたことに従うのが民主主義と考えている節がある。民主主義は人権保障の手段であって目的ではない。だから、人権侵害に対しては、みんなで決めたことでも従う必要がないのだ。この当たり前の発想に立てないのだ。
  なぜ、こんな誤解が生じ、戦後教育の中で生き延びてきたのか。学校できちんと「主権者」教育をしてこなかったからだと考えている。
  戦後まもなく文部省(当時)は「新しい憲法の話」「民主主義」というタイトルの小冊子を作成、主権者教育に乗り出したのだ。前者は中学一年生の、後者は中学・高校の社会科教科書としてそれぞれ1952年(昭和27年)、1953年(昭和28年)まで使用されていた(展望社発行:「新しい憲法のはなし・民主主義」文部省著作・戦後社会科教科書)。ところが、なぜか中止になったのだ。今日に至る民主主義の劣化はここに端を発していると見ている。
  私達は望みもしない歴史的分岐点に立たされた。今、この中止したツケがボディーブローの様に効いている。 

                                                                                   以 上