山川市場


昭和43年産のりんごは、出荷経費にもならない低価格に、かなりの量を翌春山や川に捨てるという事件が起きた。
これを後に「山川市場」に出荷したと言った。

この兆候は昭和38年頃から現れていた。
昭和38年バナナの自由化と豊作によって、紅玉を中心に価格が暴落した。
それでも生産者は耐えて生産を続けてきた。

昭和43年みかんの大豊作と価格暴落に連動するように、国光・紅玉が価格暴落を続け、ついに2万トン以上を放棄した。

この後生産者は、一大決心をして国光・紅玉から「スターキング」「ふじ」へと品種更新を始めた。
捨てたりんごに未練を残しながらも、「山川市場に出荷した」と笑い飛ばし、品種更新に取り組んだ生産者の強さが青森りんごを支えている。

私はこの昭和43年12月に結婚した。
妻が最初に本格的な農作業をしたのは、44年の春、こっそり川の土手に国光を捨てに行った事であった。そのころでも不法投棄であり、環境には問題はあったのだろう。でも現在みたいに行政が指導することもなく、捨てる場所がなく止む得ない事だったと思っている。
あの時代は小規模養豚農家もあり、かなりのりんごを餌と一緒に与えたが、最後は豚も鼻でりんごを除いてから餌を食べるという話があった。
我が家ではそれ以来毎年30aずつ国光・紅玉をふじ・スターキングに更新をした。
約5年で国光・紅玉をすべて更新した。
結婚当初でもあり「これからこうしていられない」との心と重なり、強烈な思い出として残っている。

ただ最近このように苦労して構成した現在の品種に対して、昔の品種が食べたいと言われ、複雑な思いをしている。
そのために、最近になって再び紅玉を栽培している。