無登録農薬の問題

生産者組織である青森県りんご協会の会長をしている時に、もっとも辛かったことは無登録農薬の問題だった。
組織活動をしている期間、様々な形で提言したり、発言したことは、多く場合パソコンにデータとして保管されているのが、このことについて書いたものが残っていない。
これは、できるだけこの問題に触れたくない、弁解したくないと言う、私自身の自己防衛の心が根底にあるからなのだろう。
ただ、このまま忘れることができない問題である。時間が経過した今だからこそ、思い出しながらまとめる。

この問題は、まさに青天の霹靂だった。
登録が無い農薬は使用できないことは、生産者は常識として知っていた。
ただ、登録がないと言っても、一概ではない。
毒性の問題があり、登録が失効する農薬はある。
しかし、毒性の問題も無く、農薬としての効果があっても、メーカーとして利益が無いから再登録の申請をしないで失効したものもある。
また同じ成分でも、メーカーが違うために登録されていない農薬もある。
毒性の問題があって失効したものは、当然使用できないのだが、メーカーの都合などで無登録になっている農薬は、使用しても問題が無いだろう。
登録が失効しても、なぜか流通している農薬があった。それらは使用しても差支えが無いのだろう。
まさに農薬に対して安易な考えがあった。
とくに効果があって、農薬として使用されていたものが、ある日突然登録失効になり無登録農薬となった場合、なぜ失効したのか生産者に情報が無いため、それ等の農薬に未練を持つような傾向もあった。

農薬は農業を営む上で不可欠なものであるが、毒性もあり、ある程度の危険性を伴っているものもある。
収穫後の残留農薬には十分な注意が必要なのだが、それよりも防除のときは最も危険性を孕んでいる。
だからこそ、扱いには慎重を期するべきなのだが、生産者は慣れで取り扱っていることも多い。
とくに、この問題が出るまでは、惰性で取り扱っていたことも多かった。

新聞で無登録農薬が報道されたとき、本県には流通されているとの報道が無かったので、安心していた。
しかし数日後、本県にも流通されて使用しているとの指摘があった。それもりんご生産者という指摘であった。
それ以後は、まさに対策に忙殺されることになった。

もっとも気になったのは、使用した生産者を指摘し、悪者扱いにする風潮が出てきたことであった。
たしかに、このような農薬を使用したことはほめられることではないが、それでは農薬に対してどんな考えの違いがあった。
使用した人は、多くの場合、恣意的に反社会的な行動をとると言うよりも、たまたま、その農薬に触れる立場にあっただけではないか。
弱い立場の生産者であるからこそ、使用者を悪者だと批判することでなく、お互いに支えあうことではないか。

私自身はこのような考えで活動したが、県内の関係者が必ずしも同じ考え方ではなかった。
そして彼らを批判する風潮が一層高まった。とくに、一部のマスコミの強硬な批判報道には、対抗する術が無かった。
対策のために使用者を特定する必要はあるのだろうが、まるで批判をするために使用者の特定に躍起になっているのではないかと、勘ぐりたくなった。
私は生産者の特定には関わらないようにしたが、嫌でも風聞で聞こえてきた。
使用者を批判することに労力を費やすことよりも、汚染されているりんごを隔離する対策を考えるべきだ。
大事なことは、問題のある農薬が残留しているりんごが、消費地に流通しないこと。
2度とこのようなことが起こらないような対策を講ずることだと思っていた。
使用者は批判されるべきなのだろうが、使用した生産者も翌年以降の生産が継続できるように支援してほしいと、県内の会議で何度も発言したことを覚えている。

どんなに頑張っても、使用者に対するバッシングは止まらず、とうとう犠牲者を出した。
まさに、力の無さをも感じた。
このような農薬が流通されているのを知らなかったこと、無登録農薬を使用するべきでないと啓蒙できなかったことの責任は、生産者の指導機関の代表である私にある。責任をとって辞任したいという腹を固めていた。
ただ、問題を解決しないうちに辞任するのは駄目だという慰留が多く、最後までこの問題にかかわることにした。
ようやく問題が解決したときは、結局辞任できなかった。
それでも一つだけ、ホンの少し救われたのは、数ヶ月経過後、犠牲になった人の後継者が、これからもりんご生産者として頑張ると言ってくれたことであった。

世の中において、弱い立場の生産者は、多くの場合被害者である。被害者である場合は、社会も応援してくれる。
しかし、この問題においては、生産者は社会へ対しての加害者であった。加害者の立場は、まさに辛い立場であった。
これ以後、私の口癖は「被害者になっても加害者になってはいけない」と、いろいろな場所で発言している。
りんご協会会長としての14年間の中で、忘れることができない辛く苦い思い出である。

(2008年2月記)