| (1)縄文時代の交流 |
圏域内には、青森県の三内丸山遺跡、道南地域の函館市サイベ沢遺跡、南茅部町大船C遺跡などに代表される数多くの縄文時代の遺跡群が発掘されており、これらの遺跡群の調査・研究によって、津軽海峡を挟んだこの両地域が縄文時代から交流が行われていたと言われています。
紀元前5500年から4000年頃のこの両地域には、発掘された土器の形式から円筒土器文化圏と呼ばれる一つの生活圏があったこと、土器以外にもヒスイ、黒曜石、クリの実など、他地
域から持ち込まれたとされるものも多く出土されているなどから、この頃から両地域の間では、「しょっぱい川」(津軽海峡)を利用して交流・交易があったことが少しずつわかってきています。
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| (2)中世時代の交流 |
鎌倉時代のころ、本州北端に勢力を有していたのは、現在の青森県市浦村の十三湖付近を本拠地としていた「安東水軍」で有名な安東氏ですが、安東氏は、当時のえぞが島にも、えぞ探題として勢力を及ぼしたとみられます。その後、安東氏は、八戸方面から進出してきた南部氏との戦いに敗れえぞが島に逃れています。
一方、当時、下北半島の川内町付近に威を張っていた蠣崎蔵人も、1450年ころ南部氏に敗れてえぞが島に逃れています。
また、安東氏を擁した武田信広(武田は、若狭の国から流れてきたといわれている。)は、その蠣崎氏の養子となり、後の松前藩の始祖となったといわれています。
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| (3)江戸時代の交流 |
北海道の松前藩と青森県の津軽藩、南部藩との関係は、地理的な近さから多面的なものがありました。
経済的には、当時の北海道においては米が全く穫れなかったため、松前藩は北海道の特産であったコンブやニシンなどの海産物を津軽藩へ輸出し、代わりに津軽藩から米を輸入していました。
さらに、江戸時代中期以降になると、商品経済が飛躍的に発展し、松前と津軽、南部の関係も全国的な商品流通経済の中に組み込まれ、いわゆる「北前船」が、上方、江戸、長崎、奥州、えぞ地など日本各地を航路で結び、米、塩、ろう、衣類、海産物など全国各地の物産が行きかうこととなりました。
南部の野辺地湊(現在の野辺地町)には、大阪の鴻池や加賀の銭屋などの出店が置かれ、そぞ地交易の最前としてにぎわいました。また、松前藩主も参勤交代の際に津軽半島を幾度も行き来したものと思われ、現在、青森県の平舘村に樹齢300年以上の黒松が整然と並ぶ「松前街道」と呼ばれる道が残っています。
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| (4)明治時代から戦前までの交流 |
戊辰戦争を経て明治2年になると、えぞ地は北海道と呼ばれるようになりました。明治政府は、開拓史をもうけて北海道を全国各地の藩や士族に分割ししました。そのとき、津軽藩は後志に、斗南藩は長万部村付近の渡島に士族の集団移住を行いました。
また、明治初年には、松前地方が青森県に一時属していたこともありました。
明治4年7月、廃藩置県が行われた結果、前述の諸藩などの管轄地は引き上げられ、松前地方も北海道に編入、北海道の行政は開拓使に統一されました。
北海道の開拓にあたっては、労働不足の解消と士族授産、北海道警備という三つの目的のために「屯田兵制度」が制定され、明治8年に青森、宮城、山形の士族が募集された屯田兵第一号の198戸965人が、札幌の琴似に入植し、翌年には青森をはじめ旧奥羽諸藩の275戸、1,174人が琴似、発寒、山鼻に入植しました。
一方、一般移住者も明治18年頃から急速に増加し、青森県からの移民も非常に多く、明治19年から29年にかけて北海道に本籍を移した人は実に3万人にのぼりました。また、明治25年から大正11年までの30年間に、青森から北海道に移った世帯は46,668戸を数え、新潟県に次ぐ規模となりました。
さらに、青森県から北海道への出稼ぎの漁民、いわゆる「ヤン衆」と呼ばれる人達もたくさんいました。
これらの人的交流のためには、交通手段の整備は不可欠でしたが、明治時代、青森県と北海道を結ぶ交通は海上航路のみで、この海上交通は、日本郵船会社が一手に引き受けていました。
やがて、民間から国有化した鉄道庁が明治41年に青函連絡船(日本最初のタービン船「比羅夫丸」)を就航させ、これにより青森・函館間は、2時間短縮されて4時間余りの航海となりました。
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| (5)戦後の交流 |
昭和20年7月、北海道では、青森市と函館市とともに青函連絡船も大空襲を受けて、14隻中12隻を失い、477人の犠牲者を出し、終戦を迎えました。
戦後の民主主義の下、両地域間で単なる労働力移動を超えた交流が始まりました。その中で、地方自治制度の導入により行われた初の道知事選に青森県出身の田中敏文氏が当選したことが特筆されます。
しかし、戦後の荒廃からようやく立ち直ろうとした昭和29年9月、台風15号の暴風、波浪により青函連絡船洞爺丸が函館沖の七重浜で転覆するという痛ましい事故が発生しました。
この事故を契機として、「北海道と本州を海底トンネルでつなぎたい」という道県民の願いの下に、たゆみない実現への努力が続けられ、昭和39年5月に、青函トンネルの調査坑の発掘の運びとなりました。
そして、21年後の昭和60年3月に青函トンネルの本坑が貫通し、昭和63年3月に津軽海峡線が開通したことにより、青函新時代がスタートしました。
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| (6)青函インターブロック交流圏構想に基づく交流 |
青函トンネルの開通を一つの契機に、また、国の国土政策による青函地域の新たな位置づけも加わり、昭和62年11月、当時の北村青森県知事と横路北海道知事との間で、「青函インターブロック交流圏」の形成を目指す合意がなされました。
この合意を受けて、平成元年度に、青函圏域の住民が自らの発想と地域創造の視点に立ち、圏域が一体となって、21世紀初頭に向けての青函圏域の新たな交流と発展を図るための指針として、「青函インターブロック交流圏計画」を策定しました(平成13年度に「青函圏交流連携プラン」として改定)。
また、この計画策定を機に、津軽海峡9町村商工会経済交流協議会の設置、青森市・函館市ツインシティ盟約などの市町村間姉妹・友好提携、青函広域観光推進協議会の設置など、新たな交流も芽生えてきています。
これまでの主な交流では、観光交流では、青函広域観光推進協議会が主体となって、広域観光ルートの設定やパンフレット作成、スタンプラリーの実施、大都市圏での広域観光プロモーション活動の展開などにより、この青函圏への観光客が年々増加してきています。
文化・スポーツ交流では、姉妹・友好提携市町村間の行政・関係団体によって、青年交流や少年少女スポーツ大会の開催や、各種行事への相互参加などが進められています。
産業経済交流では、行政間では、姉妹・友好市町村間交流、道・県農業交流や各試験究機関交流など、団体・民間では、テクノポリス関係団体による青函異業種交流、商工会議所や商工会による合同会議や青函サミット等の開催、漁協間による水産技術交流、青函地ビールフェアの開催、 コミュニティFM局の共同番組製作などが進められています。
なお、青函インターブロック交流圏構想推進協議会では、圏域一体感を醸成することを目的として、各種フォーラム・シンポジウムや青函アート展、青函海底映画祭の開催や、青函オリジナルTVドラマ製作・放映、青函トンネルウオークなどを実施してきています。
この10数年間、多様な主体によって多くの交流が行われてきましたが、必ずしも青函一体感の醸成とまでは進んでいないのが現状です。
これは、圏域全体に交流意識が浸透していないため、交流地域や交流分野が限定されていること、交流のメリットが薄いこと、時間距離の問題や経費を伴うことなどによるものと考えられますが、社会経済情勢が急激に変化している現状のもとで、この青函圏を発展させていくためには、これまで以上に交流意識を高めるとともに、連携へと発展させていく取組みが求められています。
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