聾学校の卒業式で考えた
(東奥日報新聞「明鏡欄」掲載:2023.3.27)
私の孫は3月11日、県立聾学校高等部を卒業した。卒業式に出席したが、保護者に対する「ねぎらい」の言葉はほとんど聞かなかった。ある子どもは保護者が車で送迎。別のある子どもは寄宿舎での生活。なぜこの様なことが起こるのか。聾の子ども達が通う学校は、徒歩で通学する圏内にないからだ。
通学の配慮は教育行政の問題。そこで大切なのは学校経営者からの保護者に対する「ねぎらい」の精神だろう。いつの間にか「教える」が「教えてやる」に変わっていないだろうか。全国各地でも、人権侵害をした教員は、ごく少数だろうと思いたいが、聴覚障害がある子ども達の教育に関わる者なら、一層の人権意識の高さを求めたい。これは、想像力がものをいう世界だ。
聴覚障がい者が不自由な生活を強いられているのはなぜか。健常者用に構築された社会の仕組みを強いられているからだ。だから「かわいそう」と考えるのはおかしい。しかも、聾者という理由だけで能力が低いと評価され理不尽さ。
聴覚障がい者が長年、恩恵を受けてきたとみなす考えから脱却するには、人権を主張することが重要である。聾学校の校長は聾者が務め、盲学校の校長は盲者が務める。そんな時代の到来が待ち遠しい。
以 上