不自由な生活を強いられる障がい者
東京パラリンピック、アスリート達の表情は輝いていた。同時に「共生社会」の実現を口々に訴えていた。立ちはだかる「哀れみを施す」発想。
これを裏付ける様な記事が東奥日報新聞8月23日付「『心のバリアフリー』上滑り 障がい者と世間 摩擦も」に掲載されていた。
「権利だけ主張して感謝の気持ちが見られない」「単なるわがまま」「障がい者様」と揶揄する声。
しかし、重要な視点が欠落している。つまり、なぜ障がい者が不自由な生活を強いられているか、という視点である。健常者用のフィールドを強いられているからである。
記事によれば、重度障害があり、電動車いす利用者である本人は、「障がい者が健常者と同じ様に移動出来る環境を権利として認めて欲しい」と訴える。
これは当たり前の話である。人権は何かの義務を履行する代わりとして与えられるものではないからだ。
また、「誰でも障がい者になり得るし、皆老いていく。色々な人が生活し易い社会を目指したい」と訴える。北欧の聾教育視察で学んだのはこの視点である。
日本では「かわいそう」、北欧では「いつ自分もそちらに廻るかも知れない」である。「かわいそう」は差別である。人権は想像力がものをいう世界である。「共生社会」の実現に欠かせないのは北欧的視点である。