手話言語条例と平等社会
「聴覚障がい者はかわいそう」。「自分は健聴者でよかった」。この差別意識は根強い。この壁を除去しなければ聴覚障がい者の目的である「完全参加と平等」は遠い。
果たして、手話言語条例化は聴覚障がい者に対する差別意識を除去できるか。二つの点から灯りを当ててみた。一つは、聴覚障がい者に対する一般人の視点である。もう一つは、聴覚障がい者自身の視点である。
そもそも、聴覚障がい者に健常者用のフィールドを強いて、かわいそうはおかしい。しかも、聴覚障がい者として生きるか、健聴者として生きるかは全くの偶然である。
孫が聾学校幼稚部に入学したのを機会にろう教育を視察する為、フィンランド・スウェーデン・ドイツを訪問した。「百聞は一見に如かず」である。聾者に対する向き合い方が日本とは真逆である。彼等は「かわいそう」ではなく、「自分もそちらに回っていたかもしれない」である。
人権は待っていては手に入らない。健聴者の恩恵的態度を期待するのではなく、人権として主張することはとても大事なことと考える。
孫は、聾学校高等部2年になった。聾学校の子ども達は明るい。共感力、想像力が高い。願わくば「自分は自分でいいんだ」という、人と比較しない「自信」を身に付けて欲しいと願っている。