殺すのは誰でも良かった
2019年11月八戸市新井田の路上で帰宅途中の小学6年女子児童が、後ろからついてきた中学2年の男子生徒にカッターで首を切りつけられるという事件が発生した。
@「殺すつもりだった」「誰でも良かった」
A犯行後の防犯カメラの記録によれば、少年は急いで逃げる様子もなく、手提げカバンを大きく揺らしながら悠然と歩いて帰っている。しかも、交 差点で信号を守り、歩いて横断している(以上は教育関係者からの情報による)。
Aの事実から「俺だってやれば出来るんだ」という、人と比較して自分を図る人間像が浮かぶ。これは自分に「自信」が持てない裏返しである。
犯行動機の単純さ、青少年犯罪の低年齢化、犯罪手口の凶悪化。彼は、きちんと受け止めてくれる人間に恵まれないまま成長してきたのではないかと思えてならない。
背景に、「人権教育」の薄さ。「書く・読む」に比べ、「話す・聴く」力を高める教育の薄さを感じる。
人類はなぜ、自由、平等を獲得するために血と汗を流してきたのか。人権保障の歴史は子ども達の教育にとても大事なことであると考える。ところが、人権侵害を経験した教員は多くないと思う。これは、イマジネーション(想像力)がものをいう世界である。
また、子ども達の「自信」を回復させるため、話す力・聴く力をより一層高める教育はとても重要と考える。反論が怖い、空気をよんで話す。後で、実は私もそう思っていました。話すのに勇気がいる国は、まともな国とは言わない。