社会は「寛容性」を失ったか
森喜朗氏は東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長を辞任した。というより、辞任させられたという印象が強い。
「女性蔑視」発言に端を発し、東京五輪・パラリンピックを開催する東京都知事の言説が際立った。「絶句」とか「悲しい」とか同会長への否定的な言葉を発信していた。意図は何であったのか。
疑問だらけの森喜朗五輪・パラリンピック組織委員会会長辞任劇。まず、今なぜ「蔑視発言」が急浮上したのか。蔑視とは、相手を馬鹿にすることである。良しとする者は1人もいない。しかも、蔑視はなにも「女性蔑視」に限らない。障がい者に対し、生活困窮者に対し、蔑視は社会に蔓延していまる。ところが、今、「女性」に限定した蔑視が話題になっているのだ。
次に、「蔑視発言」と言われている森氏の発言内容。事実の認定、評価は正しかったのか。表現の自由は民主主義の生命線である。勿論無制約であっていいはずがない。これらを踏まえて、しっかり検証したのだろうか。その道の専門家の話は全く聞こえてこなかった。
さらに、世論の形成に大きな役割を果たすマスメディア。撤回し、謝罪しても加熱する「森喜朗パッシング」報道。これは正しい思考回路であったのだろうか。異なった見解にも耳を傾けて多面的に考察したのだろうか。疑問は拭えない。孤独性の薄い国民性。鳥雲のような国民気質。さらなる慎重さが欲しかった。
最後まで「森さん、言葉に気を付けて頑張って下さい」という報道に触れることはなかった。人間は過ちを犯すものである。国民は、いつから完璧な人間を求める様になったのだろうか。「寛容性」を失った社会は息苦しい。名刺に肩書きなしで国際的に通用する人材を失った損失は計り知れない。
「女性蔑視」発言に端を発した光景から見えてきたことがある。活発な討論議論の未熟さである。諸々の委員会がセレモニー化していなかった。具体的には、少数意見を述べ、聴く力の弱さである。
虚しさだけが残った森会長辞任劇。熱くなりやすく冷めやすいでは何も教訓にならない。