五輪・パラリンピックは障がい者に対する認識を変えるか
以下は、報道からの引用である。
「パラリンピックに期待を寄せていた障がい者も『やむを得ない』と理解を示す。視覚障害がある横浜市の畝本(あぜもと)彩美さん(30)は、障害とは何かを考える「視覚障害平等研修」の講師として五輪・パラリンピックのボランティア向け講習も実施してきた。延期が決まり「共生社会に向けた機運が変わらないか心配だが、時間が出来たので、より多くの人に共生や多様性について考えて貰える」と前を向いた。」
私もそう願っている。しかし、私は少し悲観的である。考える土壌は岩盤のごとき厚く固いいからだ。つまり、自分も何時障がい者の側へ廻るかも知れないという想像力が希薄なのだ。未だに障がい者に対して「可哀想」という考え方が主流を占めているのがその証左である。健常者が障がい者に不都合なフィールドを造り、障がい者に可哀想はおかしい。これは、とても分かり易い差別である。
そこで、私は障がい者が健常者に理解を期待するのと同時に、障がい者に求められているものがあると考えている。それは、恩恵的発想から「完全参加と平等」を獲得する発想への転換である。そして、健常者が根強く抱く無知・偏見・不安という構造を打ち砕く行動である。
その為に欠かせないのが、「自律心」の涵養であると考えている。つまり、自分で考え、判断し、決断し行動する、という構造だ。失敗は教訓、上手くいって感動。その繰り返しが人間を成長させると考えるからだ。同時に、障がい者に理不尽な構造を打ち砕くエネルギーを与えてくれると考えるからだ。
ところが、いまだに学校が、家庭が「自律心」の重要性に気付かない。不思議でならない。そこで、その原因を探ってみた。
・人はみな違うのだからみな違って当たり前、という発想が弱い。
・主体的に生きようとしない。
その結果、空気を読み、空気に流されやすい。
・同一性を好む国民性。
これでは、多様性を理解する力が育つはずがない。「赤信号みんなで亘れば怖くない」という発想に繋がりやすい。
・国民全体に優生思想的考えが根強い。
他者と比較しないと生きていけないということだろうか。だとすれば、これは自信のなさの現れでもある。自信のある人は他者との比較をしな
いからだ。
・多数意見=正しい、という考え方が根強い。
何が正しいか、誰にも解らない筈だが。
・受験学力の過大評価。
これは、人間の成長を止める元祖である。つまり、自分は優秀であると錯覚に陥りやすいからだ。
・異文化に触れる機会が少ない。機会はあるけど避ける傾向が強い。その結果、地球単位で考える習慣が培われない。
・憲法13条前段「すべて国民は、個人として尊重される」と規定する。これは、憲法の中で最も重要な条文と言われる規定である。しかし、学
校でどの程度の教育が施されているのか心許ない。
以上の様な大人達の生き方が子ども達の成長に暗い影を落としていると見ている。典型例は「自己肯定感」の弱さ、いじめ問題である。
確かに、人は一人では生きていけない。しかし、これは障害の有無に関係がない。だから、お互いに助け合うことはとても大事なことである。その際、健常者の障がい者に対する理解を持つのも大事なことあるが、さら大事なことは、障がい者一人一人が健常者用のフィールドを障がい者に当てはめる理不尽さを人権として声をあげることだと考えている。この点、視覚障害をものともしない畝本(あぜもと)彩美さんの活動に共感を覚える。
以 上