人はみな違うのだから違っていて当たり前

 地元新聞「転落相模原殺傷事件」掲載に見逃せない記述があった。
  「『意思疎通の出来ない人は安楽死させるべきだ』とする被告の考えについて、後輩が気がかりなことを言った。『本音を言えば共感しますけどね。殺すのは間違っているけれど』」。
  優生思想的な考えがここまで露骨であれば分かり易い。瞬時に想像したのは、民主主義を民主主義で破壊、およそ600万人ものユダヤ人を虐殺したヒトラーである。
  民主主義と人権保障の関係は、手段と目的の関係にある。とすれば、被告の考えに共感するということは、民主主義の破壊を宣言しているに等しい。
  ところで、共感できるとは、加害者の予備軍がいるということだ。この点、愛媛県大学教授鈴木静は「優生思想的な考えが、実は誰の中にもあるのではないか」と指摘する(法学館研究所「今週の一言」より)。
  とすれば、人は潜在的に他者と比較しながら生きているということだろうか。この点、興味深い記述に出合ったので紹介する。以下は、伊藤塾塾長伊藤真著「憲法のことが面白いほどわかる本」からの抜粋である。

  「みんなと同じでないと落ち着かない」という気持ちは良く分かります。だから、みんなと同じでいようとする力が無意識のうちに働く。みんなと同じ中にいれば、安心していられますし、ストレスもたまらない。これもわかります。
  しかし、だからといって、人と違った行動や考えを持つ人を叩くことはないでしょう。みんな同じ様にやっているのに、一人だけ共同体のルールを守らず、抜け駆けしていると受け取られるからでしょうか。
  いや、これは、結局ねたみなのです、「出る杭は打たれる」という言葉もあります。目立つことを嫌うわけです。それは自分に自信がないからにほかなりません。「自分にはこれだけの個性があり特徴があるのだから、人がどうであろうと気にしない」と言える自分がないと、どうしても人と比べてしか自分を測れなくなってしまうのです。自分を相対化してみることは大切ですが、同時に一人一人は絶対的な存在なのですから、人と比べることなど出来ないはずです。私たち一人一人が自信を回復することが、個人の尊重という観点からは必要なことのように思えます。
  お互いに個性を尊重し、共同体の枠からはみ出した者も認める大きさがないと、個人の尊重など実現できません。一人一人違っていて当たり前という社会に早く展開していくことが必要でしょう。これは一方で個人を浮かび上がらせますから、社会でも学校でも会社でも、今のように「みんなと同じなら、ひと安心」という、ある意味では気楽な生き方はできなくなることを意味しています。結構しんどいものがあるかもしれません。
  しかし、「自自分は自分でいいんだ」ということをお互い認め合うことができれば、そして人の目などがなくなり、それを気にすることなく生きられるようになれば、その方が幸せであるという選択を、憲法は13条でしているのだと思います。同じ幼稚園に通っているからといって、同じ小学校に行く必要はないのです。みんなが大学に行く必要はないのです。会社で同期だからといって、出世のスピードが同じである必要はないのです。
  今まで私たちは、子どもの頃から人と同じように生きることのメリットを叩き込まれてきました。そんな風に育てられれば、そこから逸脱した集団や個人を排除しようという、いじめやマスコミの暴力が横行するようになったとしても、いわば当然の結果なのかも知れません。
  小中学校などでは、同和教育の時間に「人間はみな平等だから差別してはいけない」と教えているようです。この教えが、もし「人間は基本的人権を有する」という原則から離れて“横一列”思想の延長で安易に語られているとすれば、それは根本的に間違っています。「みな同じだから」平等でなければというと、「同じでないから、という理由の差別を助長することにつながりかねません。そうではなく、人はみな違うのだから違っていて当たり前、それを特別のものと思わないようにする教育が必要なのです。違っていて素晴らしいんだと、それを受け入れることが出来る広い心を教育していくべきだと思います。少なくともオタクやネクラといった言葉がマイナスイメージで語られることがない社会にしていくべきです。
  つまり、憲法や人権は私たちが守るべきものというよりも、むしろ日常生活において、人との違いを受け入れるという意味で実践し行使していくべきものなのです。

  被害者はたとえ意思疎通が出来なくとも、感情疎通は出来る。家族にとっては彼から生きるパワーを貰っているのかも知れない。共感者には気付く由もないであろう。
  憲法13条前段は「すべて国民は、個人として尊重される」と規定する。この条文を私は次の様に学んだ。「人はみな同じ」人として尊重。「人はみな違う」個人として尊重。この様な言説は共感者には糠に釘であろう。

以 上