可哀想は差別

 聴覚障がい者は、なせ不自由な生活を強いられているのか。理由は簡単である。社会の構造が健常者中心に造られているからだ。とすれば、健常者が聾者に対して可哀想、彼等に救済してあげる、健常者と同等の能力を要求すること、全てはおかしい。生活するフィールドが公平でないからだ。可哀想は差別であると言われる所以である。
  北欧の大学・高校の視察で学んだのは、障がい者に対する向き合い方である。日本とは真逆である。つまり、彼等の発想は「自分達も何時障がい者側に廻るかも知れない」が前提。これに対し日本人は「自分は障がい者側に廻ることはない」が前提。この発想は、哀れみを施す恩恵的発想と繋がりやすい。
  私の孫は、青森県立聾学校へ通学している。感心するのは生徒達の内面的価値、つまり愛情・共感・信頼等が高いことだ。これは教育の成果と考える。
  さらに、聾学校へ通う子ども達へ望みたい。「自律心」を鍛え、より一層自信を身に付けることだ。そして、作文・版画・絵画・スポーツ等を通じて「発信力」を高めて欲しい。健常者の認識構造は、無知・不安・偏見という傾向が強いからだ。
  ちなみに、スウェーデンの障害対策の目的は「完全参加と平等」である。孫と共に悩み、学び、同目的に向かって前進したい。

以 上