待ち構える罠
〜体験したことが行動基準〜
体験から学ぶことは重要である。だが、体験に縋り付くのは危険である。分岐点は「無知の知」を行動基準に取り入れることが出来るか否かである。
一体、私たちは生涯どれだけの体験を出来るだろうか。私は「ちり」にも値しないと考えている。しかも、不確かで不透明な時代である。体験を生かすには、かなりの検証力が必要であろう。
ところが、体験したことが行動基準である人達にとって、体験したことは「ちり」ではない。全てである。生きる力である。従って、「無知の知」は行動基準にはなり得ない。ここから諸々の綻びが生じてくることになる。
彼等の特徴は、「自律心」に無縁であることだ。その結果、学習力が弱く反論できず否定語を多用することだ。また、多角的視点に盲目である。そして、成功体験者は、子どもを親の型にはめたがる傾向が強いことだ。これは、子どもに寄り添うのと真逆の方向である。
長寿時代。しかも社会は益々目まぐるしく変化する時代である。そんな中、心身共に健全に生きて行くには「自律心」の醸成は不可欠であると考えている。
ところが、体験したことが行動基準の面々は、「自律心」とは最も遠い位置にいる様な気がしている。
だとすれば、待ち構えている風景は「孤立」の二文字である。「個にして弧ならず」ではなく、「個にして弧になる」である。悲劇的なのは、本人が気付かないうちに精神疾患への道に迷い込んでいくことだ。これは、体験したことが行動基準とする面々の陥る罠であると考える。
ただし、内面的価値は体験の数に相応しい価値が醸成するに違いない。
以 上