「沈黙」は何もしないことではない
〜沈黙する善良な市民の罪〜 


 「沈黙」は民主主義の妨害である。人権実現の最大の敵である。民主主義は国民が監視し、批判し、改善を要求することが出来るから進化すると考えられるからだ。また、人権と民主主義は目的手段の関係にあるからだ。
 「自律心」の弱さが「沈黙」という形で表れるのだろう。フランス人は「人と同じ」と言われて心を病む。日本人は「人と違う」と言われて悩む(加賀乙彦著「不幸な国の幸福論」)。見て見ぬふりをする。波風を立てないことを美徳とする社会風土。これらは「自律心」が根付かない堆肥としては十分である。
  一方、要のない話はするが、要のある話はしない。できない。解説・評論はするが、自己主張がない。高学歴、知識層と言われる輩に見られるタイプである。これも「沈黙する善良な市民」に等しい。
  悲劇的なのは「沈黙する善良な市民」は民主主義の妨害者である。人権実現の最大の敵である。という認識がないことだ。厄介なのは、彼等は優生思想に陥っている可能性が高いことだ。ところが、これは「私は自分に自信がありません」と宣言しているに等しい。自分に自信のある人は他者と比較する必要がないからだ。
  西洋のことわざに「沈黙は金なり」という言葉があるそうだ。これは表現の自由が保障されていない時代の話である。しかし、レースの様な人生観、優生思想に縋り付く輩には「沈黙は金なり」は脈々と受け継がれているようだ。
  長寿社会、不確かで不透明な時代である。「自律心」がより一層求められる時代である。ところが、実態は真逆の方向へ進んでいる様に映る。楽な方へ楽な方への流れである。これでは「沈黙する善良な市民」は繁殖する一方である。
  思うに、人は誰でも穏やかに暮らしたい。幸せを感じられる生活をしたい。その際、「沈黙する善良な市民」でいることが批判から逃れられ、平穏な生活が維持できると考えているのかも知れない。しかし、「沈黙」は平穏な生活を保障しない。「沈黙」は民主主義の妨害であり、人権実現の最大の敵であるからだ。とすれば、「沈黙は禁である」。
  憲法は「沈黙する善良な市民」の弊害を歴史的事象として読み取っていたのだろう。憲法12条前段は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力にいよって、これを保持しなければならない」と規定する。
  私は、濃く淡い光が好きである。この規定はそんな灯りを照らしてくれる気がしている。

以 上