安保法制違憲訴訟で見える裁判官像
私の親族は、青森空襲で7人が犠牲になった。伯父家族一家は全滅(両親、子ども4人)、叔母一人が犠牲になった。この様な背景を抱え、安保法制違憲訴訟原告になった。
その訴訟経過を地方にて肌で感じることは中々難しい。イマジネーションを働かせながら関心を維持している。そんな中、安保法制違憲訴訟最終準備書面後半部分を11月5日付「塾長雑感」(伊藤塾塾長伊藤真が毎月一日配信)を読んだ。読む者に感動と自信、そして勇気を与え、訴訟にかける熱い思いが伝わってきた。「今日の様な違法の危機に際して、裁判所がその役割を果たさずして、日本に未来はあるのであろうか」。
その一方で、安保法制違憲訴訟を通じて裁判官の人間模様が浮き彫りになってきた。一言で表せば、人間としての弱さである。つまり、「人間は弱い生き物である。裁判官は人間である。従って裁判官は弱い生き物である」。という図式である。
だとすれば、弱い人間は一体どういう行動をとるだろうか。思うに、弱い人間ほどレースの様な人生コースを走るだろう。そして、レースでは知性、合理性、論理性等は不要、必要なのは他者との比較のみである。権力者に媚び、保身を図り、虚勢を張る。利己主義で弱い人間が黒い法服に身を覆い、一生懸命虚勢を張っている様に映るのだが、極端な見方だろうか。
勿論、全ての裁判官がそうだとは思っていない。しっかり裁判官の役割を果たしている裁判官がいることは知っている。殆どの裁判官はそうであるに違いない。自信と勇気を与えてくれる判決文はファイルして何度も読み返し、自らを鼓舞している。
だが、レースの様な人生コースを選ばないことは、家族を巻き込んで相当な覚悟が必要なのかも知れない。これは、受験学力では身に付く代物ではない。
公と私、私を優先する余り司法を支える国民の信頼を損なう様なことがあってはならない。それは、裁判官の役割では無い。議院内閣制度の下、司法権が権力者側へ忖度する様では三権分立は音を立てて崩壊する。
「個にして弧ならず」。語ったのは、憲法学者樋口陽一である。安保法制違憲訴訟法廷に登場する裁判官の面々は「個にして弧を恐れる」でないことを祈る。
以 上