100回の節目を迎えた講演活動
子ども達の笑顔を増やしたいと親御さんを対象に始めた講演活動。100回目の節目を迎えた。講演内容は、親御さんが如何に子どもに寄り添うか、というごく当たり前の話である。が、実践はとても難しい。それは老若男女を問わない。これが17年に亘り100回も続けられた理由の一つである。その間、子ども達の環境は家庭、学校を含めて悪化の一途を辿る。そして、時代の変遷は聴講者の意識にも影響を及ぼすことになるのは自然の流れである。
そんな中、20代の女性教員らしきアンケート感想が少し気になった。他人を押しのけてでも自分の利益を守ろうとする利己主義的な人間を想起させる内容であったからだ。つまり、批判はあったが、意見がなかったのだ。意見とは、主張と理由が一体となって意見という。
事務機器販売の若い営業マンが事務所を訪ねてきた時の話だ。私が人生70年過ぎた心境の一部を語った。これに対して「良く分かります」と相づちを打ったのだ。70年の人生を凝縮した話が「良く分かる」。驚きを飛び越えて、相手に対する強い不信感を募らせたものだ。
この点、同女性は「聞く」ではなく「聴く」を使っていたとアンケートに記載されていた。私は、同営業マンに似た印象を強くした。「聴く」は高いスキル。つまり想像力が求められるからだ。
今、意見は言えないが、ベラベラ喋るタイプの人間が繁殖しているのだろうか。彼等は「自分は自分で良いんだ」という立ち位置に立てない面々である。自分と違った考え方に触れることに恐怖を感じ、他人の評価がとても気になる。簡単に言えば「自信」がない輩である。「ガラス」の様な人間である。両親という高い塀に囲まれ、過保護に育てられた結果だろうか、と想像するのだ。
そして、拍車をかけるのは、驚異的な発達を続ける通信機器の存在である。「思考停止」を招き、知らず知らずに短絡的傾向を強めていないだろうか。そして「無知の知」、つまり知らないことを知らないと自覚するには、まだまだ若すぎるのかも知れない。
そもそも民主主義は、国民が権力を監視し、批判し、改善を要求することが出来るから進化するのであろう。だが、実態はどうだろうか。「沈黙する善良市民」「群れる高齢者」、背筋を伸ばし、凜とした大人を見ることは難しい。これは、主体的に生きてこなかったツケがまわってきた自然の流れだろう。自信を失った証である。その為か属性に縋り付く高齢者がやたらと目に付く様になった。これも自然の流れだろう。
批判はするが、意見がない若人。沈黙する善良市民と群れる高齢者。所得格差は教育格差を生み、利己主義者は繁殖の一途を辿るのだろか。だとすれば、誰もが幸せを感じる世の中とは真逆である。
以 上