人は他人と比較しないと生きていけないものか

 「優生思想的な考えが、実は誰の中にもあるのではないか」と指摘する大学教授の記述に出会った。だとすれば、他人と比較しない人生を歩むとすれば、かなりの自制心が求められよう。
  また、「人生は『自信』と『楽観』が一番重要。何事も楽観的に考え、自信を持って活かせる人は幸せである」という記述に出会った。考え込んでしまった。「自信」がない楽観はただの風任せの人生に等しいからだ。
  築78年になって頓に感じるのは、この「自信」というやつだ。つまり、長寿人生を全うするには、どうもこの「自信」というやつが鍵を握っている様な気がしてならない。
  ところが、レースの様な人生観からは「自信」は涵養されないことも見えてきた。レースの様な人生観は、他者との比較が前提である。他者との比較は過信、誤信は生まれても「自信」は生まれない。だが、自分に「自信」がないと、どうしても他者と比較しないと自分の立ち位置が維持できない。負のスパイラルである。
  だから、「自信」は実は主体的な人生観にして生まれるものだと考えている。失敗して教訓。上手くいって感動。その繰り返しが人に「自信」を与えてくれると考えられるからだ。
  ところで、パラリンピックという行事は優生思想的な考え方の払拭に貢献してくれるだろうか。つまり、障がい者に対する無知、偏見、不安という構造に風穴を開けられるだろうか。私は悲観的である。一過性で終わるだろうと見ている。「熱くなりやすく、冷めやすい」国民性が根深いからだ。
  優生思想的な考え方が払拭されない限り、障がいのある人の人権保障などは絵空事である。その為には、国民一人一人の自信回復は欠かせないと考える。
  同時に、障がい者自身、自分たちは社会でなぜ不自由な生活を強いられているのか、しっかり学習しなければならないと考える。例えば、人口の五割以上が障がい者で占められているとすれば、障がい者に不自由な社会を構築するだろうか。これは、障がい者問題を考える原点である。
  先日、青森県障がい者スポーツ大会を観戦した。関係者以外の観客は皆無に等しかった。だが、障がい者と関係者の会話がとても明るい。そして、「頑張れ」と声をかけられたグランドを走る選手、手を挙げて答えていた光景は中々見られるものではない。「楽しかった」はスポーツ冥利に尽きる。

  以 上