教育の原点と学校スポーツ

 教育の原点は「自律」する力を身に付けさせることにある。主体的に生きる力と言い換えても良い。これは「自信」の醸成にあると理解している。不透明な時代、かつ長寿社会を生き抜く為には、自分に対する「自信」は不可欠である、と築78年になって身に染みる。
  そこで、教育の原点という灯りを学校スポーツに当ててみた。勝利至上主義が教育の原点を駆逐していないだろうか。つまり、子ども達の自律心の萌芽を摘んでいないだろうか。個性を潰し、カドをを削いでいないだろうか。監督が主役になっていないだろうか。学校は常に保護者を絡め、教育の原点を検証することはともて大事なこだと思う。
  学校スポーツを通じて、指示・強制がなければ何も出来ない子どもに育ってしまっては、元も子もない。子ども達の青春は二度と戻ってこない。
  今夏、話題をさらった剛速球投手を要する岩手県大船渡高校。岩手県大会決勝戦まで順調に駒を進めてきた同校。甲子園切符を手に入れる最終戦に彼の姿は投手としても、4番バッターとしてもなかった。
  色々と報道されているが、監督が同選手及び野球部員にその経緯を説明したという報道に触れることはなかった。いつの間にか、監督が主役になっていたのでは、と疑いたくなる。
  確かに、目標と目的を分けて考えた時、目標は「甲子園出場」である。しかし、その一方で高校スポーツは教育の一環として行われる。とすれば、目的は教育の原点である「自律」する力を身に付けさせることにある。
  ところが、監督が主役になった場合どうしても指示・強制が優先する構造になりがちである。これでは部員の「自律」する力は遠のくばかりだ。
  私も球児であった。60年も前の話である。夏の大会が終了すれば、三年生は部活動に参加しない。2年生主力のチームになった時にことが起きた。冬期間、11月から3月中旬まで練習を休止したい、と主将が提案したのだ。理由は前年に冬季練習をやったが、その効果が表れないからだという。
  約30名いた部員の中、反対したのは私以外一人もいなかった。不幸なことに監督不在、顧問は大学卒業したばかりの教員であった。私は、野球部を退部することを選んだ。その際、顧問に呼ばれて言われたのは「みんなで決めたことに、なぜ従えないのか」であった。その時の教訓は、みんなで決めたことに何でも従う必要があるのか、という疑問であった。退部後は猛烈に勉強した心地良い記憶が残っている。今思えば、主体的に生きることの重要性を学んだ様な気がしている。
  民主主義は、目的ではなく手段であることを後に憲法を学ぶことで知ることになる。

  ところで、今までの高校スポーツのイメージを一変させる光景をみせられた。2019年度全国高校野球選手権大会での出来事である。以下は、yahoo!ニュースからの転載である。
  「18日にあった準々決勝第3試合、星稜(石川)−仙台育英(宮城)の七回裏。仙台育英の攻撃中、星稜の先発・荻原の右手がつりかけた。仙台育英の4番打者・小濃は、荻原の小さな異変を感じ取ると、自分が飲もうと思っていたスポーツドリンクのコップを持って、直ぐにベンチを飛び出し、2年生右腕の元へ駆け寄った。「怪我したらダメだよ。これ飲めよ」と荻原に声をかけた。
  このとき、仙台育英は1−9でリードされていた。小濃は「これまで自分たちが死球を受けた時も(相手に)コールドスプレーをかけて貰っていた。自分たちもそういう場面が来たら、何かしなくちゃと思っていた」と振り返った。仙台育英の須江監督は「気がついたら小濃が行っていた。日頃からグランドに敵はいないと教えています」。
  最初は驚いた様な表情を見せた荻原だが、すぎに照れくさそうに受け取ると、ドリンクを飲み、投球を再開した。「まさか相手選手から貰えるとは」と荻原。星稜の林監督も「本当ならうちらが行くところを・・・ありがたいです」と感謝しきりだった。
  敵味方を問わないフェアプレーに、3万4千人の観客から大きな拍手が送られた。(室田賢)」

  この光景は選手達の「自信」の証である。まさに教育の原点を地で行く光景である。レースの様な人生観からは、決して身に付くものではない。高齢者の生き方に重要な示唆を与えている、と私には映った。猛暑が吹っ飛んだ。指導者の質の高さに驚愕した。

  以 上