「一生懸命」の危うさ

 伝統的に「一生懸命」を美徳とする社会風土がある様だ。その為か、疑うことなく「一生懸命」に縋り付く人達をよく見かける。ところが、実はここに落とし穴が潜んでいるのだ。
  「一生懸命」か否かは、あくまでも手段であって目的ではない。この手段が目的化した場合、「一生懸命」やればやる程ことの本質を見失う。とすると、目的の異論には垣根を立てて排除する手段を選ぼうとする。私達の身の回りにその様な事象はゴロゴロ点在している。
  さらに、「一生懸命」が利己主義と一体となったとき、利己主義的な行動を見抜くことは中々難しい。利己主義が「一生懸命」によって包み隠されてしまうからだ。だが、見抜くポイントはある。利他主義者は他人の評価を全く気にする必要がない。それに比較し、利己主義者はとても他人の評価を気にする。他人の批判を恐れ、捏造してでも自分の立ち位置を守ろうとする。これが利己主義者か否かを見抜くポイントである。
  評価の対象は、「一生懸命」ではない。「目的」である。そして、そのプロセスである。このことをきちんと押さえておくことは、とても大事なことであると考えている。
  私は、中高、社会人で野球をやっていた。その間、東日本軟式野球大会へ県代表で出場することもあった。野球で学んだことの中に、「練習をすればするほど悪くなる」ということがある。つまり、基本の出来ていない練習は「一生懸命」やればやるほど悪い癖が付き、取り返しの付かないことになるということである。八甲田春スキーに挑戦、スキー練習にも同じ様なことが言える。
  ところで、老後の不安を考えた時、「一生懸命」という

  以 上