教育観を変えなければ

  「教育の名」の元に子どもを刺し殺す。2016年に起きた事件である。小学4年生頃から暴力によって勉強を強制されていた少年。中学受験勉強をしなかったから、と小学6年生の時に父親に包丁で刺し殺された。親が子どもの人権の全てを奪う。
  教育熱心な親と子の殺人事件。過去の事件は、子が親を殺すケースであった。今回は違った。親が子を殺したのだ。
  「教育虐待」という言葉があるという。それによれば、「『あなたのため』という大義名分の元に親が子に行ういきすぎた『しつけ』や『教育』のこと」である。
  しつけや教育は大事なことである。ただし、「あなたのため」という大義名分を外した場合である。「あなたのため」という大義名分は、殆ど自分の為であることが多いからだ。そして、そこには親の見栄、他者と比較する人生観、優生思想的考え等に支配されている教育観が漂っているからだ。親の本業は子どもに寄り添ってあげることである。これがまたとても難しい。親の「自律心」が試されるからだ。
  親を個人として糾弾したところで、根本的な解決にはならない、と指摘するのは武蔵大学の武田信子教授である。同教授が次の様なことを述べていることを報道で知った。
  「急速に産業が進んだ時代に一定以上の能力を持つ『人材』を大量に育成する目的で広まった教育が今も変わらず存続してしまっているために、様々なところで軋轢が生じ、エデュケーショナル・マルトリートメント(教育上不適切な扱い)として浮き彫りになっている」
  「社会全体の教育システムや教育観を変えないと、エデュケーショナル・マルトリートメントはなくならない。」
  だとすれば、「教育虐待」なるものは「教育の本質」は何か、が問われていることになる。
  教育の本質は、子ども達に「自ら考え、自ら判断し、自ら行動する資質」すなわち「自律心」の育成にあると考える。だが、学校教育を見る限りその様な傾向は感じられないのだ。
  刺された少年は、父親に対しどんな思いであっただろうか。止めてくれなかった母親に対しては、どんな思いであったろうか。学校は気付かなかったのだろうか。学校が気付いてくれなければ、一体誰が気付いてくれるのだろうか。それとも、見て見ぬふりをしていたのだろうか。
  皆と一緒に中学へ進みたかったろう。友達と遊びたかったろう。いっぱいお喋りもしたかったろう。想像するだけでも辛い。
 




 

  以 上