身辺に忍び寄る空気というマグマ
若者の間で「空気を読む」、という言葉が使用されていることを知ったのは5年位前のことである。それまで空気は吸うものとばかり思っていた。これが同調圧力の根源であることを知るのに時間はかからなかった。
この度、太平洋戦争開戦は「空気」によって引き起こされた、という記述に出会った(http://maga9.jp)。日本人300万人、アジア人約2000万人が戦争の犠牲になった。空気は気体故に視覚に入りづらい。その空気が人を殺す。なんと恐ろしいことか。
では、どの様な空気がどの様にして作出されるのか。
みんなと同じ方向を向いて安心な国民性。これは「自律心」の欠如の表れと見ている。そして、「自律心」の欠如は、「沈黙する善良な市民」を量産、「思考停止」という空気を作る。空気に流されやすい体質の土壌は肥えるばかりだ。
しかし、民主主義体制は「自律心」が前提に成り立っている制度である。空気を予定していないのだ。ところが、昨今の政治状況を見るに空気が政治を動かす大きな力になっている様に映る。だとすれば、これは民主主義の自己破壊である。最近では、空気の中を「忖度」が徘徊している始末である。
また、障害者に対する偏見、これも空気の成せる業か。その空気とは、優生思想的な考えである。無知・偏見・不安の流れが「かわいそう」という障害者に対する差別的な内心を作出、空気を造るのだ。
障害者が社会生活に不自由を強いられているのはなぜか。ここを乗り越える発想がないと、障害者に対する偏見という空気の除去は難しい。障害者に対する共感力などは絵空事である。
私は、幸せの本質は自分の生きたい様に生きることに尽きると思っている。幸せは他人と比較して感じることでもないと考えているからだ。だが、どうしても自分自身に自信がないと、他人と比較してしか自分を測れなくなってしまう。その為には、「自律心」の醸成は欠かせないと考えている。
以 上