子どもに向き合えない親激増か


  確かに、親の指示・強制で子どもは従順に育つかも知れない。しかし。「自律心」が育つことは難しい。そればかりか、思春期に非行に走る危険性が高いと見る。一方、愛情は時間がかかる。しかし、信頼と希望の種を蒔く。
  今、子どもに「向き合わない、向き合えない」親達が激増している様な気がしてならない。しかも、その様な親に限って能書きを言う。「私は、子どもの為に全てをやりました。私には何も非はありません」と。ところが、子どもには全く伝わらず反発を買うのだ。その結果、親は疲れ、癒やしを求めさまよう。これは「自律心」の弱い人間の定番コース。子どもを孤立に追い込む典型例と言える。
  問われているのは、親の言動の正誤ではない。親は何を成すべきかである。全て「私は間違っていない」という常套語で断ち切ってしまう。子どもが非行に走ろうが、暴力を振るわれようが一行だにしない。実はこれは、「子どもの為」という仮面をかぶり「自分の為」の所作に過ぎない。子どもは、既に見抜いているのだ。知らないのは親ばかりである。さらに言えば、これは親業の放棄である。立木に立って子どもを見ていないのだ。この様な所作は、特に教員を職業とする親に蔓延している様な気がしてならない。
  子どもと「向き合う」。子どもにとって最も大事なことが欠落していることに気付かない。これは悲劇的である。
  端的な例が、2000年5月に発生した「西鉄バス乗っ取り事件」である。同事件の母親は保健師、父親はエンジニアであった。教員と保健師。共通項は「人を指導する」職業であること。「話す力」があっても「聴く力」が弱いことだ。ここに、子どもに向き合わない、向き合えないヒントが潜んでいる様だ。
  私は、子どもの「自律心」、つまり「自分で考え、判断し、決断し、行動する。その結果については責任を負う」。この構造は、子ども達が社会の中でより良く生きて行くためには欠かせないと考えている。しかも、そこに教訓と感動の宝庫である。失敗して教訓。上手くいって感動。この繰り返しが人間を成長させると考えている。その為には、親御さんの「自律心」の涵養は欠かせない。
  まず、次の構造からの脱却を図ることだ。「子どもに対し『あぁしなさい』『こうしなさい』。子どもは、その指示通りにやらない、出来ない。私は、あなたに伝えてあるわよ。やらないのは、あなたが悪いのよ」。これは、親業の手抜きの典型例である。子ども達は親離れするのにわずかな時間しかない。急がなければならない。
  次に、親の自信回復である。自信は、想像力を高め、聴く力を高める。そして、親の聴く力は子どもに考える力を醸成、子どもの自信を育む。この善循環を醸し出す利器が「自律心」なのだ。「自律心」の弱い親にとって子どもに向き合う等という発想が、そもそも生じないのかも知れない。そのツケは、全て親へ跳ね返ってくることを覚悟すべきである。
  子育てに失敗した親御さんは、非行に走った子どもからどんな教訓を得たのだろうか。子どもから逃避し、自らを癒やす為に奔走する親の姿はよく聞く。しかし、子どもと向き合った格闘話を聞くことはない。
  法曹家を育成する塾で「子どもは受け入れてもらったと感じることで、はじめて優しい気持ちや生きる力が生まれる」という記述に出会った。親と子どもの関係はこれに尽きると考えている。この趣旨を伝えようと2002年に始めた講演活動は98回を数える。青森市内を会場に3ヶ月間隔で実施している。講演時間は3時間。参加費無料。ご来場をお待ちしております。

  以 上