「自律心」を学校で教育しない不思議さ
私は、一人一人の自信は自らの成長を促し、社会を変えると信じている。ところが、自信に満ち満ちた人に出会うことは珍しい。私は、小間物修理店を長いこと利用している。職人の自信に満ち満ちた表情は全く変わらない。これは、少数派中の少数派に属する人達なのだろうか。
自信のなさは、例えば、手段が目的化として現れてくる。極端な例が大流行の「第三者委員会」である。現実は「百害あって一利無し」である。
自信とは、自分を信ずることである。そして、自信は、人間成長の源である。ところが、なぜか人は「自信」を持てない。主因は教育にあると考えている。学校は「自信」の涵養に欠かせない「自立心」の重要性を教育していないのだ。これは、自分で考え、判断し、決断し、そして行動する、という構造である。そこは、感動と教訓の宝庫である。ところが、学校では学力向上は叫ぶが、「自律心」の重要性を教育しない。不確実な時代、しかも長寿社会を迎えてもこの構造は変わらない。とても不思議である。
その結果、何でも人のせいにする大人をつくり、損得では動くが善悪では動かない大人をつくる。悲劇的なのは、そのツケが自分に降りかかってくることに気付かないことだ。
一方、「自律心」とは対極にあるのがレースの様な人生である。これは、とても自分に対する他の評価が気になる。虚栄心・見栄が強まり、捏造、優生思想的な考えが全面に出てくる。これらには限界がない。
その結果、人間の成長は阻まれ諸々の弊害が露出する。属性に縋り付く傾向を強め、いわゆるジジイへとまっしぐらである。待ち構えているのは「孤立」である。
この悪循環を断ち切るには「自律心」の涵養が欠かせないと考える。金はかからない。が、少しの勇気は必要かも知れない。
「事実は変えられないが、評価は変えられる」。これは名言である。
以 上