東京パラリンピック光と影
「メダル獲得」「障がいを自分の力で乗り越えた」「賞賛」。確かに、これは美談かも知れない。しかし、この美談の裏には皮肉な結果が待ち受けていることを忘れてはならない。つまり、障がいを個人の責任と捉えていることだ。これは障がい者問題の本質を見失う。また、これは世界の潮流だとも思えないのだ。
障がいは乗り越えるものではない。取り除くものである。しかも、取り除く責任は社会、つまり健常者側にあるのだ。その理由はシンプルだ。社会の構造は健常者によって作られているからだ。この点について、伊藤塾塾長・弁護士伊藤真は著書「中高生のための憲法教室」に次の様に記している。
「社会構造(バリア)事態を排除する権利を障がい者が持っていると考えるべきなのです。社会権を、恩恵を受ける権利ではなく、理不尽な制度を忌避する人権として捉えると、25条も個別に貧困を救済する権利つぃて見るのではなく、そもそもそうした社会構造自体を排除する権利として位置づけることができます。
国に援助を要求するのではなく、自分たちが連帯して力をつけ、悪辣な企業に要求して、自らの権利回復をはかっていく。あくまでも自立した個人として力をつけ主張していく権利が25条なのです。」
例えば、「障がいを乗り越えるアスリートは凄い」、と感じたら同時に、なぜ彼等は不自由な社会生活を強いられているのだろうか、と発想を転換してみる。これは障がい者に対する共感力を高める為には、とても効果的と考える。同時に健常者側の義務でもあろう。
「みんな違って、みんな一緒」という共生社会の実現は、国民生活をより一層幸せにするに違いない。東京パラリンピックは、障がいはその個人の責任だとする偏見から脱却する絶好の機会である。
東京パラリンピック後は、新しい風景が見られるのか。とても楽しみである。
以 上