いじめと優生思想的考え
〜いじめは増加の一途を辿る宿命か〜
優生思想的考えは誰の中にもあるのではないか、と指摘するのは愛媛大学の鈴木靜愛教授である(法学館憲法研究所「今週の一言」)。レースの様な人生を歩む人達にとっては、優生思想的な考えは宿命かも知れない。しかも、「自立心」の涵養を妨げ、人間の成長を阻む素でもあると考える。
身体的な欠点は自分の責任ではない。これを指摘、嘲笑する。これは最も卑劣な行為である。人間のやることではない。だが、これは優生思想的な考えの表れかも知れない。とすれば、誰の中にもあり得る話であるということになる。
いじめで得られる快感は止められないという。子ども達の環境は子ども達を孤立に追い込み激変した。人は苦しさを癒やさなければならない。「いじめ」は苦しみを癒やす格好の道具なのだ。これは優生思想的な考えの表れと言っていいかもしれない。だとすれば、「いじめ」は増加の一途を辿る宿命にあると言える。
であれば、いじめに対するディフェンス(防御)を強化しなければならないはずだ。ところが、「いじめ」の報道に接し、いつも不思議に思う。それは、苛められている事実を学校、家庭が殆ど把握していないことである。そして、なぜ把握出来なかったのか、という検証が殆ど報じられることがないのだ。これはディフェンス(防御)の甘さが如実に表れている証である。
私達は、子どもの頃から人と同じ様に生きることのメリットを叩き込まれてきた。とすれば、そこから逸脱した個人を排除しようとするという、いじめが横行するのは当然の成り行きかも知れない。
そこで、ディフェンスの強化策として提言したい。子どもは教育の主体であって客体ではない。10人10人が違う。つまり、人との違いを受け入れるということだ。このことを学校、家庭が徹底して展開していくことである。
いじめの背景は奥深い。子どもは大人の縮図である。大人が愛情、共感、信頼など、内面的価値を高めないといじめはなくならない宿命にあることを知るべきである。
今、属性、つまり学歴・職歴・経歴等に縋り付く高齢者が蔓延している。これも優生思想的な考えの表れと言える。自分に対する評価を気にして生きてきた面々である。待ち受けていたのは「自立心」の弱さである。加えて、パソコンは人間から「話す」「聞く」という動作を奪った。代わりに検索というキーボードを与えた。つまり、「知る」が「分かる」という錯覚を与えたのだ。
いじめ問題、新聞の論調に「家庭と学校の連携を密に」という記しがあった。親子の連携がないのに、家庭と学校の連携を密に出来るのか。論者に聞いてみたい。
とにかく、学校、家庭を問わず、子ども達の話を聴いてやることだ。特に家庭では雑談を増やすことを推奨したい。
以 上