子どもの心が離れる 〜典型的な親〜 (U)


  「我が子が非行に走り、毎日何とかしようと子どもに向き合えば向き合うほど、どんどん子どもの心が離れていきました。」と述べる本人が参加する集会へ参加した。
  ところが、なぜ子どもの心が離れていったのか。1行たりとも語ることはなかった。そればかりか、親は苦しさの余り、自分を癒やしてくれる場所を東京に発見する。2年間、月に一度の日帰りを繰り返したというのだ。
  では、悩み、苦しむ子どもは一体何処へ行けば良いのか。親の癒やしの効果が非行の子どもに及ぼした影響も語ることはなかった。参加した期待は完全に裏切られた。勿論、子どもに対する愛情の一欠片も発見することは出来なかった。
  自分の悩みとは向き合うが、核心である子どもの悩みとは向き合おうとしない。向き合う勇気がない。そればかりか、自己を正当化するため「子の為」という仮面をつけ闊歩する。なんと自己中心的な人間であろう。これが元教員のやることか、と憤りさえ感じる。「子どもにより添う」重要性に子の「非行」を体験しても未だに気付かないのだ。これは悲劇である。
  思うに、非行に走った子の親達と向き合う前に、まず、子どもと向き合うことである。子どもと向き合うとは、子どもの話を「聴く」ということである。自分が一方的に喋り、諭したり、アドバイスを与えることではない。子どもの心は澄んでいる。だから鋭い。そこから逃げてはならない。
  これは、自分に自信がないと中々の難物である。また、想像力が試されることにもなる。その為には「自立心」の強化は欠かせないと考える。これは、自らの弱さとの格闘である。だから、そこは教訓と感動の宝庫と言われる所以である。その際、自らを支えるのは子どもに対する無償の愛である。
  予想していた通り、当人の職業は元教員(女性)であった。「自立心」とは無縁に生きてきた様だ。これは、教員一般の弱点かも知れない。子どもを一人の人間として向き合うには、親の成長は欠かせない。本件は、教員の弱点が色濃く反映した子どもの非行と映った。
  だが、当人はこれから非行に走った子の親の癒やしの場所を宣伝、拡散したいというのだ。いじめで自殺した子の親が講演する。加害者側について語っても、被害者側に関することを殆ど語らない。この構造にとてもよく似ている。だとすれば、そこからの教訓は得られない。悲劇を繰り返してはならない。 

以 上