教員の盲信は凶器
東奥日報10月15日朝刊、福井県池田町で3月、町立池田中2の男子生徒(当時14歳)が自殺した事件、調査委員会の報告書が掲載されていた。
教員はOBを含め一見して分かる。そこに、本件を考えるヒントが潜んでいるようだ。
その中で見逃せない点が2点ある。 一つは、「今まで教員をしてきて過信をしていた」と述べた、と記されている点である。彼は、「盲信」を「過信」と履き違えている。過信とは、自信のある人に当てはまることであるからだ。
では、なぜ盲信を過信と履き違えているのか。「自立心」の欠如にあると考える。自立心は日々格闘である。「自立心」を鍛えている人は、未熟さを自分で認め、そうでない人は未熟さを生徒に向ける。
教員の仕事場は「教室」という閉鎖された一室である。しかも、力関係の違いを背景にした所作は、社会との乖離が大きすぎる。そして、とても唯我独尊に陥りやすい空間でもある。
もう一つは、「担任は大声で叱責するなどし、副担任は執拗な指導を繰り返した」と指摘した点である。脅し、見せしめ、言葉の暴力、体罰等、教える技術の未熟さに起因するものばかりだ。「盲信」の教師像が浮き彫りになっている。
自分は同じことを繰り返し、子ども達には変化を求める。指導する技術の未熟さに焦りが透けて見える。同時に、自分に対する他の評価がとても気になる。
教員は、子どもと向き合ってこそ価値のある世界である。ところが、子どもが教育の主役になっていないのだ。そのうち、教室の「可視化」が話題になるのでは、と心配だ。
対岸の火事ではない。「盲信」と「保身」に身を包んだ教員が県内津々浦々に蔓延している様な気がしてならない。だとすれば、類似の事件が本件に起きても不思議ではない。
今一度、検証と研修を試みる必要があろう。福井地検は、業務上過失致死容疑の告訴状を受理したという。
以 上