アンケート 子どもの声
民主教育を進める青森県民連合が昨年12月から今年3月にかけて、青森県内18校で実施したアンケート。子どもから親へ、学校へ、友達へ。子ども達の悲鳴は叫びに近いものであった。その一方で、教師の質の劣化も浮き彫りになった感がある。
教室という狭い部屋で、しかも力関係の違いを背景に振る舞う姿は、社会との乖離が大きすぎる。分かり易く言えば、社会のシステムでは通用しない構造だ。
脅し、見せしめ、言葉の暴力、体罰等、教える技術の未熟さに起因するものだろう。自信のない教師像が浮き彫りになった感は否めない。
教育は、子どもと向き合ってこそ価値のある世界と考える。ところが、子どもが教育の主役になっていないのだ。いつの間にか、教えるが教えてやるになっていないだろうか。自分は同じことを繰り返し、子ども達に変化を求めていないだろうか。今一度検証する必要性があろう。
「あなただけはどうしてそうなの」。私にとって、久しぶりに聞くこの言葉の響きは格別であった。中学、高校と親から、教員からどれ程言われたことだろう。大人が好んで使う「協調性がない」「わがまま」であった。「主体性」があるとは評価されたことはなかった。そんな中、中学2年時に新聞配達をすることになる。期間は1年2ヶ月。好きな部活は出来ない。成績はエレベーターであった。だが、親は一切干渉しなかった。これが、後々の人生に多大な影響を与えることになる。「自立心」の萌芽である。
アンケートの中でも最も注目し、かつ驚いたのは、「一人一人違うから」。これがいじめがなくならない理由のトップであったことだ。既に、子ども達は「いじめ」の根源を見抜いていたのだ。これは凄いと思った。現在まで教育関係者、いじめの被害者などから聞くことはなかったからだ。
しかし、このことを既に著書で表していた人物がいた。不世出と言われる伊藤塾塾長・弁護士伊藤真著「憲法のことが面白いほど分かる本」の一部を紹介する。発行は2000年6月8日である。
「自分に自信をもち、人との違いを受け入れる。お互いに個性を尊重し、共同体の枠からはみ出した者も認める大きさがないと、個人の尊重など実現できません。一人一人違って当たり前という社会に早く展開していくことが必要でしょう。これは一方で、個人を浮かび上がらせますから、社会でも学校でも会社でも、今までの様に「みんなと同じなら、一安心」という、ある意味では気楽な生き方はできなくなることを意味します。結構しんどいものがあるかも知れません。
しかし、『自分は自分でいいんだ』ということを、お互い認め合うことが出来れば、そして人の目などがなくなり、それを気にすることなく生きられる様になれば、その方が幸せであるという選択を、憲法は13条でしているのだと思います。」
「今まで私達は、子どもの頃から人と同じ様に生きることのメリットを叩き込まれてきました。そんな風に育てられれば、そこから越脱した集団や個人を排除しようという、いじめやマスコミの暴力が横行する様になったとしても、いわば当然の結果かも知れません。」
「人はみんな違うのだから違って当たり前、それを特別のものと思わない様にする教育が必要なのです。違っていて素晴らしいんだと、それを受け入れることができる広い心を教育していくべきだと思います。」
官僚の不祥事、スポーツ界の不祥事、通底しているのは「自立心」の不涵養である。「自立心」は日々格闘である。だから、そこは感動と教育の宝庫である、と考えている。
何が難しいかと言えば、「いじめ」をなくすことではない。日本の社会風土の中で人の違いを認め合うことが難しいのだ。
「花は一輪でも美しい。でも花束は、形や色の違った花々がお互いを引き立て合っているからもっと美しい」。これは異文化教育の教師が言ったことである。教室も、部活もこいうあって欲しいものだ。
以 上