梅雨空に「九条守れ」の女性デモ

  何とも恥ずかしく、情けない出来事が最高裁で争われている。費用は全て税金で賄う市側。一方、市民側は全て個人負担である。この格差が市側の緊張感を脆弱にしているのだろうか。
  梅雨空に「九条守れ」の女性デモ。この俳句をさいたま市三橋公民館は、月報への掲載を拒否した。これが発端として、現在九条俳句不掲載損害賠償等請求事件として最高裁で争われている。
  私は、弁論の中で三橋公民館の次の様な主張に注目した。「本件俳句を本件たよりに掲載することは、世論の一方の意見を取り上げ、憲法9条は集団的自衛権の行使を許容すると解釈する立場に反対する者の立場に偏することとなり、中立性に反し、また、公民館がある事柄に関して意見の対立がある場合、一方の意見についてのみ発表の場を与えることは一部を優遇し、あるいは冷遇することになり、公平性・公正性を害するため、許されないから、本件俳句を本件たよりに掲載しなかったことには正当の理由がある」。
  後日、付け焼き刃的につけたという感じの「中立性」「公平性・公正性」。自分の立ち位置を防御する必死さだけが伝わってくる。本件は、社会教育法を遵守すれば何も難しい話ではないからだ。
  ところが今、市民の政治的な活動を公共の場から閉め出す動きが相次いでいるという。その理由を探ってみた。
  そもそも民主主義は、国民が権力を監視し、批判し、改善を要求することが出来るから進歩するのであろう。
  ところが、まず、権力に対する「批判」は許さない、という底流がある。そして、公共施設管理者の法意識が底流に押し流され機能しなくなっていることが考えられる。
  次に、国民のスタンスである。多くの国民が漠然と三橋公民館の主張に頷いている節が考えられる。
  だとすれば、この構造は民主主義の自殺行為である。ここに独裁政治の萌芽を見るのである。
  集会を含む一切の表現の自由は、民主主義の生命線である。一審、控訴審同様、最高裁に格調高い判決を期待したい。

以 上