アメフト反則問題、報道が過熱するのはなぜか
アメフト反則問題、監督、コーチからの指示に対して「NO」と言えば、今回の問題は発生しなかった。次なる加害者の行動は、弁護士を帯同しての独走記者会見である。
この辺りから、学校行事での出来事がテレビのトップニュースになるのだ。誰かが仕掛けたかの様なシナリオは、著名な教育評論家が取り乱す様な事件に発展。日本大学が延々と批判に晒されることになった。ここに、日本の社会がきちんと背筋を伸ばしたものになれない理由が潜んでいる様な気がしてならない。
当初から問題の本質、つまり体育会の民主化、勝利至上主義の弊害という視点からかけ離れたテレビ、新聞の報道姿勢。特にワイドショー的なテレビ局の取り上げ方は、質の劣化を露呈、辟易した。大学スポーツの在り方、学生達への教育的視点等はひとかけらも感じさせなかった。
加えて、それに乗じたかの様に被害者側のボルテージは上がる一方である。ことは学校行事の出来事である。教育的視点は欠落し、とにかく刑事事件にしたい。とても教育機関である組織の発想とは思えないのだ。
視聴率優先主義がテレビ番組担当者の思考停止を招き、問題の視点を見失ってしまったテレビ局の罪は重い。国民を不幸に陥れる様なことはしてはならない。
本件アメフト反則問題を考える際、評価基準はいたってシンプルなのだ。
まず、加害者である20歳のアメリカンフットボール選手を、大人と評価するか否か。
次に、法意識、つまり試合場において違法行為を避け、適法行為に出ることが期待出来たと評価するのか否か。
だが、この評価基準に日本人がとても好む情緒的判断が加われば、問題点を見失う。「加害選手がかわいそう」をキーワードにワイドショー的に連日報道したテレビ局。加害者を大人と評価せず、法意識の感性は無に等しかった。国民の評価も殆ど同様であったのでは。これが、「アメフト反則問題」をトップニュースに押し上げた主因である。
関東学生連盟の認定にせよ、処分決定にせよ、決議に加わった一人一人は、どの様な評価基準で評決に参加したのだろうか。とても疑問だ。彼等は本件から何を学んだのだろうか。これから試されよう。
主役は選手達である。本件からどの様な教訓を得たのだろう。特に、加害選手は今どの様に過ごしているのだろう。全ては、人間成長の過程に過ぎない。その為には、自分の頭で考え行動し、その結果には責任を取る。この構造を鍛えることは、とても大事なことと考える。