「自立心」の涵養に運動部は障害か
日大アメフト部悪質タックル問題。加害選手の記者会見を見て、20歳にして「自立心」の涵養の難しさを痛感した。
傷害容疑がかかる行為と認識しながら、何故「NO」と言えなかったのか。自らの意思で記者会見を開き、ことの真相を語った勇気がなぜラフプレーを指示された時点で出なかったのか。勇気を出す時点がずれたのが悔やまれる。
しかし、傷害容疑がかかる行為を監督やコーチから要請があった場合、断れる選手は皆無だろう。だから、問題は根深く、深刻なのだ。
記憶に新しいのは、ラグビーW杯でのエディー・ジョーンズヘッドコーチが残してくれたものだ。彼は、マインドセット(思考回路)を変えなければならないと強調。規律を守らせる為、従順にさせる為だけに練習している。それでは勝たない、と指摘したのだ。
では、何故断らなかったのか。断れなかった、と言った方が正しいのかも知れない。私は、自分の保身と加害行為との比較で、自分の保身を優先させた結果と見ている。「善悪」という客観的基準が、「自分の保身」という主観的基準に押し潰されたのだ。長い人生の間に決断を迫られることは必ずあることだ。
これは、徹底した個人主義に立つ憲法が施行されて71年、民主主義の前提である「自立心」が未だに根付いていない証である。これは悲劇的欠陥である。
日本大学を叩けば叩くほど、問題の本質が遠のくばかりである。「過去をより遠くまで振り返ることが出来れば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう」(チャーチル名言集)。悲劇的欠陥にメスを入れない議論は、何の教訓も生まない不毛なものに終わるだろう。
勿論、今回露呈した問題点はスポーツ界ばかりの話ではない。連日、国会を独占する官僚の情報隠蔽、不祥事、不適切発言。源流は皆同じである。
以 上