受験学力は自分の弱さと闘う武器になれるか
今ほど官僚を巡る異常事態は、過去に記憶がない。なぜ、彼等は官僚としての誇りや品性を失ったのか。
確かに、組織の衣を纏うと人間が豹変する。日本の社会では良く聞く話だ。しかし、ことはそのレベルで終わる話ではない。彼等は学力が最も高いと評価される面々だからだ。
憲法学者樋口陽一は「和をもって貴しとなす」では法律はいらない、と指摘する。ですが、我々は行動する価値観を「善悪」という客観的基準よりも、共同体において「迷惑をかけていない」とか「迷惑をかけた」という主観的基準に求めてきた。その結果、組織の為にということであれば、全てが肯定される構造を生み「善悪」を判断する眼力をすっかり衰弱させてしまった。
加えて、受験学力偏重教育が拍車をかけていると映るのだ。受験は解答のある問題にしか向き合わない。その為、人間の大切な質である「思考する」能力がすっかり奪われているからだ。彼等は、受験学力偏重教育の犠牲者なのかも知れない。
自立した個人を保つというのは、自らの弱さとの格闘である。彼等は、それに負けたのだ。「個にして弧ならず」。「和して同ぜず」。これらを教訓に出来なかったのだ。
今回の官僚の不祥事は、氷山の一角に過ぎないと見る。徹底した個人主義の立場に立つ日本国憲法を制定して71年、未だに集団主義的発想から脱却できないからだ。そればかりか、社会は真逆の方向へ進んでいるのだ。
では、集団主義的発想から脱却する為に国民は何をなすべきか。私は、国民一人一人が主体的に生きることに尽きると考える。その為には、教育改革なくしては難しい。
以 上