お互いの違いを認め合うことの難しさ

 日本聴力新聞「読者のページ」(2018年5月1日号)に以下の様な投稿が掲載されていた。投稿者は人工内耳と教育をテーマにした集会に参加した耳の聞こえない人である。
  「参加者の聞こえない質問者は、『聴覚障害児に対して、親が聞こえる様にしてあげたい気持ちは分かるが、その逆はないのか』。『子どもも聞こえない方がよい。聞こえる子どもが生まれたら、その子の耳を傷つけても聞こえなくしたい』と話したのだ。」
  私は、これを読んでお互いの違いを認め合うことの難しさを痛感した。何ら戸惑いもなく「聞こえる耳を聞こえない様にしたい」、と発言できた行為。
  思うに、「個人の尊重」「人権」「平等」「偏見」「差別」「個人主義」「利己主義」等の言葉に無縁の場所で暮らしてきたに違いない。自分の思いを素直に吐露したのだろう。
  憲法13条前段「すべて国民は、個人として尊重される」と規定する。一人一人の幸せは「個人の尊重」にあると考えたのだ。これはお互い、個人として尊重し合うということである。だから、利己主義とは違う。ところが、これがなかなか難しい。相手の立場になって考える想像力が必要となるからだ。
  ところで、「個人の尊重」が前提となる社会が存在してきただろうか。「お互いの違いを認める」。これは、障害の有無を問わず、徹底した個人主義の立場に立つ日本国憲法の大きな課題である。私達は、障がい者を含めてこの辺りをしっかり学習する必要性を感じる。
  今日、障がい者の利益を確保する法律が次々と整備されてきた。しかし、享受する側一人一人にそれを保持する不断の努力がなければ、絵に描いた餅である。

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