市民の憲法認識と国の命運を握る自立心
憲法を無視、あるいは軽視する安倍政権。でも、殆どの市民は憲法に関心を示さない。なぜだろうか。羅針盤が機能しない日本丸、乗客に不安はないのだろうか。これは、国にとっても国民にとっても不幸なことであり、悲劇的である。
確かに、この段になっても自分には憲法は関係ないという人が大勢いるだろう。しかし、それだけだろうか。次の二つの視点から考えてみたい。一つは、「憲法を守れ」「憲法改正反対」と叫ぶ光景が、一般市民に与える暗いイメージだ。もう一つは、市民は憲法は難しいと言うが、分からないとは言わない国民的気質である。
憲法を叫ぶ光景に暗いイメージ
確かに、伝統的な革新政党に対するアレルギーは、まだまだ残っているのだろう、一部の人達の集団が「憲法を守れ」「憲法改正反対」と叫んでいる光景にしか映らないのだ。国民の声に映らないのだ。しかし、人権を保障する憲法に暗いイメージは相応しくない。
「憲法に無関心な人がいても、憲法に無関係な人はいません」(「自衛隊明文改憲の論点」刊行に寄せて・伊藤真)。私は、このフレーズがとても気に入った。そこで、ノボリを二本作り、一本は事務所前に立て、一本は街頭に立て移動させている。
市民は憲法は難しいと言うが、分からないとは言わない。
これは、中々の厄介者である。「個」の確立していない人々によく見かける「虚栄心」「見栄」の反映と映るからだ。
私は、かねがね「自立心」の涵養は、国の命運を握っていると見ている。市民一人一人が自分で考え、判断し、決断し、行動する。その結果に対して責任をとる、という構造だ。市民には、まだまだ無縁の構造である。それは、同時に集団主義の意識が脈々と存在し続けている証でもある。そしてこれが、ものの見方、考え方、生き方に大きな影響を及ぼすことになる。
「自立心」の弱い人間は、自分に対する評価がとても気になる様だ。その結果、虚栄心。見栄が強まる。これには限界はない。難しいという割には憲法を学んだことがない。学ぼうともしない。これはその現れである。だから、彼等にとっては何も矛盾することではないのだ。
そして、「沈黙は金なり」「受け身の人生観」で自らの立ち位置を維持しようとする傾向が強い。これは「観客民主主義」の温床である。特に高学歴、経済的に安定している層にその傾向が見られる。
では、国の命運を握る「自立心」の涵養は進んでいるのか、後退しているのか。教育環境にひかりを当ててみた。スポーツの分野では、子ども達の「自主性」の重要性に気付き始めてきた様だ。「成功することは素晴らしい。成功しなくても成長することはもっと素晴らしい」。このことに指導者達が気付き始めたのだ。
その一方で、勉強の分野はどうだろうか。私はとても悲観的だ。それは、受験偏重の教育環境にある。受験問題に解答のない問題は出題されない。つまり、そこは考える力、つまり想像力が培われる環境ではない。「自立心」の涵養に相応しくない環境なのだ。そして、家庭も「自立心」の涵養とは真逆の方向へ突き進んでいる様な気がしてならない。子ども達に「従順」さを強調、没個性を促す方が親にとって楽だからだ。
とすれば、憲法を語って憲法に関心を持って貰う手法に併行して、「自立心」の重要性を色々な観点から市民に浸透させる取り組みが必要な気がする。
以 上