障がい者の偏見は批判の対象にし易い

 聴覚障害者協会の忘年会へ出席したときのことだ。聴覚障害者の母親と健常者の小学校高学年の子どもが並んで座っていた。私は、席を移動して子どもに声をかけた。「お母さんが耳が聞こえないということで、学校でいじめにあうことはないですか」と。答えたのはお母さん。手話通訳者を通じて「あるわけないでしょう」と。血相を変えて怒った。怒りが収まらないのか、帰り際に両手で頭に角を立て怒りの気持ちを表したのだ。
  親の属性、身体に関わる話は、無知の子ども達の中では良くある話である。では、なぜお母さんは怒り心頭の表情を見せたのだろうか。私には、偏見が生む不安から逃げているに過ぎないと映る。
  しかも、大勢の面前で怒りを爆発させることが出来たのは、周りに同質の人達が大勢いたことを推量できる。最も恐れるのはこの空気である。加えて、一方で障害から逃れたい。その一方で障害を盾にしたい。
  この構造には「完全参加と平等」を阻む膨大なエネルギーが秘められている。恩恵、施しなどではなく、人権として堂々と主張することを破壊してしまうエネルギーだ。
  無知は偏見の元祖だ。限られた人間との交流は無知の温床になりかねない。色々の手段を使って多様性を認める精神の涵養は欠かせないと考える。
  「障がい者、働く場が広がる」と報道されている。障がい者に対する「偏見」が拡散するのか、それとも理解が深まるのか。障がい者の偏見は障害と一体として見られ、目立つ。

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