国民の精神的風土と集会の自由 

 恐るべき政治状況が続く。続けることが出来る理由は何か。国民が叫ばないからだ。いや、叫ぶ気力も体力もないのだ。
  私達は元来、「自立心」、つまり自分で考え、行動するという構造を持ち合わせていないようだ。他人と違う、と言われて悩む国民性。誰かの指示に基づくスポーツ観戦。瞬時に思考停止に陥れる魔法の言葉。「みなさんがそうしています」。通底しているのは、国民の「個」の喪失である。
  加えて、親は子を育てない。学校は、受験に偏重、内面的価値を軽視。大人は、他の評価を気にしながらレースの様な人生を歩む。ことの判断基準は「善悪」より「損得」。空気を造るのではなく、空気を読む。政治は誰がやっても同じだと言いながら、政権を変える勇気もない。楽な方へ楽な方へとなびく精神的風土。安倍独裁政権にとっては、望むべくもない環境である。
  その隙間を突くかの様に繁殖する右翼系議院。国民が権力を監視するのではなく、右翼系議員が国民を監視する風潮さえ現れてきた。
  そんな中、淡いひかりを放つのが憲法21条1項が保障する「集会の自由」である。民主主義の生命線と言われる「表現の自由」の一角を占める重要な基本的人権。判例(「成田新法事件」最高裁平成4年7月1日)は、その機能について次の様に述べている。
  「集会は、国民が様々な意見や情報等に接することによって、自己の思想や形成、発展させ、また、相互に意見や情報等を伝達、交流する場として必要であり、さらに対外的に意見を表明する為の有効な手段であるから、憲法21条1項の保障する集会の自由は、民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして、特に尊重されなければならない」。
  もちろん、集会の自由は多数人が集合する場所を前提とする表現活動であり、行動を伴うこともあるから、他者の権利ないし利益と矛盾・衝突する可能性が強く、それを調整するために必要不可欠の最小限度の規制を受けることはやむを得ないところである。
  ところが、私が体験したのはそんなレベルの話ではない。後期高齢者である私は、初めて国会議事堂正面向かいの安倍法制強行採決反対集会に参加した。警官隊の警備、誰の支持なのか、忖度なのか。信号は渡らせないは、大回りの道を誘導するは。後で分かったことだが、「集会に参加」することを躊躇させる為であったのだ。特に尊重されなければならない重要な基本的人権である「集会の自由」。擁護するのではなく、侵害する。そのせこさに驚いた。
  民主主義の前提を肥大させるのではなく、萎縮し続ける安倍自民党政権。過去を検証せず未来を語る危うさ。独裁政治、全体主義の土壌は肥えるばかりだ。
  しかし、日本国憲法は徹底した「個人主義」の立場に立つ。全体主義に比べ幸せに暮らせると考えたからだ。ところが、私達は今、日本国憲法とは真逆の方向に進んでいる。この段になっても国民は「仕方がない」を選択するのだろうか。私にはその選択はない。

                                                                                 以 上