劣等感が人間を動かすとき
「人民の人民による人民のための政治」これは民主主義の基礎である。
「安倍の安倍による安倍のための政治」これは独裁政治の基礎である。
国会の場で総理大臣の妻の振る舞いが、膨大な時間と費用をかけ問題になったことを聞いたことも見たこともない。安倍自身が「憲法」になっている成せる業だろう。憲法を無視、軽視する安倍総理大臣の振る舞いは独裁者と評価するに相応しい。それにしても、与党の自浄能力のなさに愕然とする。
そんな中、3月13日の地元紙朝刊トップ記事に「森友文書・答弁に合わせ改ざん」「議院内閣制揺るがす」という大活字が躍っていた。しかし、アンケート調査では安倍政権の自支持率はほんの少し下がっただけである。ところが、このアンケート調査がくせ者である。
アンケート調査に答える人達の「思考過程」を検証してみる必要がある。そもそも、子ども達は家庭、学校で自分の意見を表明することの大切さを教えられ、育てられているのだろうか。結果は「空気を造る」ではなく「空気を読む」等の世相に良く現れている。この様な状況下で、「議院内閣制揺るがす」と言われても主権者に危機意識が生じるであろうか。民主主義の危機意識が生じるであろうか。
憲法改正・安保法制・教育改革等、全て日本の骨格を担うものばかりだ。国民は、独裁政治に心身共に任せる覚悟は出来ているのだろうか。「赤信号みんなで渡れば怖くない」という発想であれば間違っている。赤は赤に変わりはないからだ。みんなで渡った瞬間、みんなが独裁政治の対象者になることを肝に銘じるべきであろう。
ところで、権力に縋り付く姿は「自立心」の弱い人間にありがちである。この手のタイプは、とにかく自分に対する他の評価が気になる。これは、虚栄心、見栄を強め、劣等感を生む魔物である。劣等感が強まると、あることないこと他人を批判することによって自分を支えようとする。これまたよく見かける光景である。この様な人物が権力を握った場合を想像してみる。私には、森友、加計学院問題はこの辺りの延長線上にある様に見えるのだ。責任は痛感するが、責任は取らない安倍総理大臣。果たして、リーダーに相応しい人間なのだろうか。
以 上