不安な時代だからこそ内面的価値を重視
日本国憲法は、徹底した個人主義の立場に立っている。人権や多様性を尊重する発想だ。それは、国民が幸せに暮らすのに最も優れている制度と、敗戦を契機に学んだからだ。まず、このことを確認しておきたい。
最近、被害者叩きが目に余る。その背景に潜む精神は何だろう。
国民の不安がピークに達している証であると見ている。自らの不安解消の為、内面的価値、つまり愛情、共感、信頼、想像などを磨くのではなく、弱者を叩くという構造だ。学力向上を優先する余り、学校教育において内面的価値を蔑ろにしてきたツケでもある。
この世に保障されているものは何一つない。だとすれば、不安、孤独感は尽きない。レースの様な人生を歩んでいる輩には尚更だ。他者との比較で自らの優位性を維持したい。あるいは「脅す」。これなどによって、不安から逃れてきたのが実態であろう。不透明な時代、この傾向は増えていく予感がする。
平成29年3月、池田中学校で起きた、中二男子生徒が校舎3階から飛び降り自殺するという痛ましい事件。「教師のいじめ」と報じられている。なぜ、学力「日本一」を目指すのか。過度の学力偏重の背景に潜む精神は何だろう。
その教師は相当追い詰められている。子どもを死に追いやる程、教師の不安はピークに達していたと見る。自立心の弱い人間は他の評価がとても気になる。そして、他人の評価に頼って生きる人にとって、人からバカにされるほど辛いものはない。負け組になりたくないとの思いが強すぎれば、将来の不安も助長される。不安から逃れたい一心は募るばかりだ。
しかし、被害者は子ども達である。子どもの人権など微塵も感じられない。一体、教師という職業は何なのか。とても疑問だ。子どもが教育の主体ではなく、客体になっているのだ。不安を前に盲目になっている教師の姿に哀れみを覚える。
義務教育課程は、子ども達が自ら学ぶ楽しさを知り、人生を生き抜いていくために必要な力を身に付けることが目的である。その為には、多様化する子ども達の特性に合わせた教育が求められる。学力を求める余り、本来の公教育のあるべき姿が見失われた結果であろう。被害者の子どもが哀れでならない。
フィンランドが学力世界一になった際、最も多く視察に見えたのは日本の教員達である。池田中学校は、フィンランドに全く学んでいない様だ。フィンランドは、学力世界一を目指したものではない。教室が荒れてきたので、若手の先生が自発的に放課後、子ども達の話を聴いてあげただけである。
人権や多様性を尊重する意識が中々醸成されない。その結果、悪弊があちこちに噴出している。特に、学校教育の現場にその傾向が強いようだ。「被害者叩き」「池田中学校飛び降り自殺」は、私達に内面的価値を重視し、人権や多様性を尊重することの大切さを教えてくれる。
【参考文献】
河合 薫著:「他人をバカにしたがる男たち」(日系プレミアシリーズ)
以 上