「手話言語法」の制定は聴覚障害者の心に変化を起こすか

 障がい者自身、自らの障害に対して「偏見」を持っていないだろうか。心配する訳は、捉え方によってその先が決まると考えられるからだ。
 例えば、「あなたは耳が聞こえないの?」と言っても、そのことを受け入れている人は「そうなの」で終わる。でも、耳が聞こえないことを恥ずかしいと思い込み、そのことをもの凄く気にしている人は、「あの人は私をバカにしている」となったりするからだ。つまり、これは心の問題である。
  「手話言語法」制定を訴える活動が盛んなのは、とても喜ばしいことだ。私は、憲法に明記すべきだと思っている。しかし、心配もある。確かに、同法が制定されれば手話が使える環境整備は進むことだろう。しかし、聴覚障害者及びその保護者の心に変化は起こるのだろうか。私は悲観的だ。
  私は、聴覚障害による不便さは強調するが、聴覚障害者であることを知られたくないという人達を見てきた。「偏見」に満ち満ちて、私の人権感覚では理解不能に近かった。彼等にとって、手話を使える範囲が広がることは意義のあることだとは思えないからだ。
  でも、同法制定は聴覚障害者の幸福度を高めることは間違いない。だから、同法制定を「絵に描いた餅」に終わらせてはならない。その為には、まず障がい者が障害を受け入れる。これがまた、健常者の障害に対する「無知」解消に大きな貢献を果たすことになると考えている。

                                                                                 以 上