安倍政権と企業ガバナンスを支える日本人の精神構造
憲法制定権者である国民から憲法を守れ、とは聞くが、憲法を改正すべきだという声はほとんど聞いたことがない。しかし、尊重擁護義務(憲法99条)を負う安倍内閣総理大臣。立憲主義の放棄を掲げる憲法改正を歴史的使命という位置づける。しかも、違憲状態国会議員による国会が憲法改正発議をするというのだ。民主主義を勝ち取る為国民が立ち上がったとは聞く。が、立憲主義の放棄に国民が力を与えるなど、先進国では聞いたことがない。
ところが、憲法改正アンケートによれば、有権者の半数近くは自民党が目指す憲法改正を支持している。憲法とは、国家権力を制限して人権を保障するもの。ところが、自民党が目指す憲法改正は、国民を守る憲法から国家権力を守る憲法に変えようというものだ。これは、もはや憲法の亭を成していない。法律に過ぎない。この様なコペルニクス的展開に、国民は今より幸せに暮らせる様になると感じているのだろうか。国民を守る憲法を失って、誰が国民を守ってくれるのか。不安は尽きない。
私は、上記アンケートには憲法改正に関する自分の考えと言うよりは、日本人の精神構造が色濃く反映されていると見ている。つまり、農耕民族の宿命だろうか。底流にあるのは、群れに入っていないと不安でたまらない日本人気質である。この傾向は、競争原理の煽りを受け、更に強まっている様だ。国民の高齢化がそれに拍車をかけている様だ。
群れの中では、「これはおかしい」と声を挙げることは難しい。「皆さんがそうしています」といわれ、瞬時に思考停止に陥る。和の精神を、波風を立てないことと勘違いする、これらは、群れから湧出される特徴の一部である。不安や恐怖が高まると群れは膨張、同調圧力が強まるという。
また、政治から目を転じ、企業はどうだろうか。世界に誇る物作りの企業ガバナンスが音を立てて崩れている。
背骨を失った様な日本人。原因は、国民総じて「自分が自分であって大丈夫」という「自己肯定感」の未発見にあると見ている。個人主義より集団主義。行動する際の価値観を「善悪」という客観的基準より、共同体において「迷惑をかけていない」とか「迷惑をかけた」という主観的基準。また、思考回路が「自己肯定感」の未発見故、受け身の人生観が根を張り、操作されやすい構造になっているのでは。
だとすれば、知性・理性・合理性に全く価値を置かない人達が政治部門で仕事をしていると思いきや、企業ガバナンス、そして、多くの国民の思考回路がそうなっているということである。
国民の思考回路を変えなければ、同じ過ちを何度も繰り返しても不思議ではない。そこで、一人一人が「自分が自分であって大丈夫」という「自己肯定感」の発見を急がねばならないと考える。国民が変わらなければ、政治も企業も変わらない。親が変わらねば子どもも変わらない。全く同じである。
以 上