議論・討論の質の劣化

  なぜ議論・討論をするのか。答えは簡単だ。何が正しいのかが分からないからだ。ところが、2018年1月1日BS朝日放送「安倍一強憲法改正どうする9条」をたまたま聞いて失望した。それは、議論討論の内容ではない。議論討論する質にあった。
  知識と倫理のみでは、人を説得できない。人は、それのみでは動かないからだ。人に寄り添う強い心、つまり「愛情」が伝わらないと人を説得することは難しい。
  これから述べるのは、そのレベルの話ではない。議論討論する質の問題である。「知識をひけらかし、相手を批判することで自分の意見が正しいと主張する型」。「威圧的言動によって相手を批判することで、自分の意見が正しいと主張する型」。共通しているのは、自信のなさだ。批判することに重点を置き、主張する根拠・理由 に重点を置いていないことだ。つまり。「what do you think・・・because・・・」の構造が出来ていないのだ。議論・討論が勝敗の対象になっているかの様な場景は、議論・討論の趣旨を忘れてしまっているかの様だ。
  中でも見苦しいのは、相手を小馬鹿にした様な薄笑いを浮かべ、話す・聴く態度だ。これは、権力を批判する側には見られない光景だ。「自己肯定感」の欠如がもたらす共感力の弱さが透けて見える。権力に媚びることで、自分を支えている様な姿は憐れみさえ感じる。
  「私は、あなたの意見には100%反対だ。何一つ賛成できない。しかし、あなたがここで意見を述べることについては、命をかけて守る」(18世紀、フランスの啓蒙思想家ボルテール)。
  安倍一強を許しているのは、テレビ出演者の議論・討論の質の劣化も大きな影響を与えているのでは。議論・討論するスキルは個人主義の先進国に比べ100年の遅れがあるのかもしれない。

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