日馬富士暴行問題
大相撲の元横綱日馬富士関による暴行問題、とにかく教えられた。礼儀、礼節を重んじるモンゴル人気質。国民の「暴力」に抗う姿勢。「指導」の難しさ。そして、日本相撲協会ガバナンス(統治)の弱さである。
礼儀・礼節
先輩に対しリスペクト(尊敬・尊重)する精神、日本人にはもはや過去の遺物になっていないだろうか。そんな思いを抱かせた光景であった。
暴力
国民は、本件において「暴力」は何が何でもダメと叫び続けた。ですが、「暴力」の最たるものは戦争である。しかも、被害の大きさは比べものにならない。加えて、世界唯一の被爆国である。しかし国民は、戦争は何が何でもダメという政治を選ばない。とても不思議である。この両者の意外に国民気質を見る思いだ。つまり、権力に媚び、非権力に強がる国民性、自信なささを。
指導
なぜ、横綱が後輩に暴力に至ったか。「指導」ではなく、「注意」するにかかったからであろう。「注意」にはとかく「暴力」「体罰」と結びつきやすい。恐怖で相手を支配しようとするからだ。この点、「指導」には暴力は不要。必要なのは説得する力である。その際、大きな力になるのは「愛」である。愛は信頼と希望の種をまくからだ。だから、注意は簡単だが、指導は難しいのだ。
力士も相撲道に励む前に人間である。勝敗の数に価値を置くのみでは、人間の成長は望めない。敗者、弱者にまわった所に、人間成長の教訓が埋まっているからだ。
日本相撲協会ガバナンス(統治)
日本相撲協会の土俵を見つめる目は厳しい。その厳しい目をなぜ、ガバナンス(統治)に生かせないのか、残念だ。理事会での議論・討論は民主主義にとっては大前提。その結果、決定したことに従う事もまた民主主義である。でなければ、民主主義は成り立たない。
そして、理事に課せられている「善管注意義務」「忠実義務」。常にチェックに晒されなければならない。組織の運営はとかく恣意的になりがちだからだ。恣意的運営か否かの分岐点は「手続」にある。常日頃から、より一層定款を始め諸々の規範に当てはめ、事を処理することが大事かと思う。つまり、「人の支配」が忍び寄る隙間を作らない。「法の支配」を徹底することが、ガバナンスにとっては欠かせないと考える。
「暴行」問題は、公権力によって決着が付く。理事に課せられている「善管注意義務」「忠実義務」違反は自浄能力で決着をつけなければならない。相撲ファンの注視するところだ。
企業の不祥事
一瞬にして世界に誇る技術国家のイメージを奈落の底へ突き落としたトップメーカーの不正行為。恣意的会社経営は目を覆うばかりだ。「善悪」より「損得」を優先しがちな社会風土。それを支える「赤信号みんなで渡れば怖くない」という集団主義的発想。そして、国民の「受け身の人生観」。これらが色濃く反映した結果と見る。
人間は弱い。だから、常に間違いを犯す。これは歴史の教訓である。これが「法の支配」という発想を誕生させた所以である。相撲界も大いに参考にして欲しい。
以 上