学校における子ども達の人権

 まず、確認しなければならないのは、人権は何かの義務を履行する代わりとして与えられるものではない、ということだ。正しい理由があるから保障される。それが人権である。「正しさ」の判断基準の一番根底にある者は「個人の尊重」である。このことは、日本国憲法13条前段「全て国民は、個人として尊重される」として確認されている。
  ところで、人権を侵害する子どもには、とかく家庭的に問題を抱えていることが多いという。そこで教師は、被害者に対して我慢を強い収めようとする風潮があると聞く。だとすれば、事は深刻である。これは、人間にとって最も重要な「人権」感覚が無に等しいからだ、加えて、被害者は二重の人権侵害に遭遇することになる。事は大きくなるばかりだ。そこで登場するのが、万能薬「隠蔽」という体質である。これでは、教師に何の教訓にもならない。保身のため「隠蔽」を使用する技術が高まるだけである。
  以下は、伊藤塾塾長・弁護士伊藤真の著書「憲法のことが面白いほど分かる本」から抜粋したものだ。
  「『自分は自分でいいんだ』ということをお互い認め合うことが出来れば、そして人の目などがなくなり、それを気にすることなく生きられる様になれば、その方が幸せであるという選択を、憲法13条(※)でしてるのだと思います。」
  ところが、大人達(親・学校)は子どもに対し、人と同じ様に生きるメリットを叩き込む傾向がある。「自分は自分でいいんだ」という生き方が中々しづらい。その結果、常に不安を抱え、そういう子ども達は群れを造り、自分の居場所を確保しようとする。そして、群れから逸脱した集団や個人を排除しようとする、これがいじめの構造だ。しかし、それでは「自律心」は芽生えない。思考停止の人生が始まり、「思考格差」に陥る流れは、人間の成長は望むべきもない。
  「子ども権利条約」(国際条約)・「子ども権利条例」(青森市)は子どもの「権利」として、「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」などが規定されている。勿論。それらの「権利」も無制限ではない。「他人に迷惑をかけない限り」という歯止めが必要になる。
  子ども達には、学校で安全、平穏に授業を受ける「権利」がある。学校側には、その様な権利が保障する「配慮義務」がある。したがって、例えば、他人から迷惑行為をされた場合、学校側へ迷惑行為を排除して欲しい、と要請することが出来るのだ。ところが、前述の様な人権を制限する様な言説をしていないか、はなはだ疑問である。
  子ども達の環境が激変した。教師に今まで以上に人権感覚が求められる時代になった。憲法13条前段の精神、つまり「人はみな同じ。個人は皆違う」という感覚を磨くことで、人権感覚を身に付けて欲しい。その際、物を言うのが「想像力」である。そして、人権の大切さを、人権の歴史を通じて教育する債務を果たして欲しい。子ども達は人権を学ぶ宝庫である。


※ 憲法13条「すべて国民は個人として尊重される」

                                                                                 以 上