与えられた民主主義に喘ぐ主権者
人権保障、統治機構、制度はしっかりしている。与えられた民主主義、70年余りを使用してきた。果たしてその間、主権者としての政治意識は涵養されてきたのだろうか。
「数の論理」が万能の様相を呈してきた安倍自公政権。「法の支配」ならぬ「人の支配」が風を切って闊歩する姿はもはや憲法が目指す国とは違う。権力抑制を予定した三権分立は崩壊、人権保障は細くなるばかりだ。民主主義の成熟はおろか、劣化している感さえある。
また、今、感情論が優先する政治風土が席巻している。感情に訴える、いわゆる「印象操作」である、自我に弱いと言われる主権者。この手法は、主権者の同意を得るには、とても効果的であることは間違いない。しかし、そこは理性・知性・論理とは無縁の世界である。以上の様な政治状況を醸し出したのは、他ならぬ主権者である。
主権者としての政治意識を育むことを阻む大きな要因は「個の欠落」、つまり、「これはおかしい」と言おうとしない国民気質にあるのではないのか。だとすれば、民主主義にとっては悲劇的な欠陥である。なぜなら、民主主義は権力を監視し、批判し、改善を要求することが出来るから進歩すると考えられるからだ。
確かに、その様な国民気質を改善することは一朝一夕ではいかない、そこには、長い歴史が培ってきた社会風土、政治風土が根深く立ちはだかるからだ。しかし、立憲主義が破壊されているのに、手をこまねいていていいのか。後世の人達の検証に耐えられるのか。
そこで、「個人主義」を学び実践することはとても大事なことと考える。その効果は、特にスポーツ界では素早く現れることだろう。それを証明した人が直近にいた。それは、ラグビーワールドカップで活躍したエディ・ジョーンズヘッドコーチだ。スポーツ界では、この流れは加速することだろう。そして、ノーベル受賞者は全て「個人主義」を徹底された人達ではないだろうか。
国民は、中々「これはおかしい」と言おうとしない。その傾向は強まっていると映る。一体何に怯えているのか。ただの怠惰なのか。自己保身なのか。今を生きる国民の責務として「これはおかしい」言え続ける自分でありたい。
以 上