裁判所が抱える病巣 〜裁判官の傲慢な態度〜


 憲法76条3項「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。」こ条文は、裁判官を志望する者にとっては魅力的であった筈だ。ところが、いつのまにか「独立」が一人歩きし、特権意識を生む根拠に成り下がってしまったか。そんな光景を彷彿させる発言を目にした。
  以下は、安保法制違憲訴訟の会が発行する「違憲訴訟の会ニュース」NO.3から抜粋したものである。
  「106人の女性が原告となって東京地方裁判所に提訴した裁判の第1回口頭弁論が2月10日に行われます。過日行われた進行協議では、原告弁論に60分を要求する私達に対して、裁判長は20分が限度と強硬な態度で、『結婚披露宴のスピーチでも20分も聞くのは辛い』と述べました。」
  全ての裁判官がそうだとは思わない。思いたくもない。が、とにかく驚いた。職務放棄とも受け取られる発言。事実を把握し、それに評価を加えることは判決の基礎として重要なポイントな筈だ。憲法訴訟の弁論と結婚披露宴のスピーチとを同列で扱う感性。その傲慢な態度は一体どこから生まれるのか。権力におもねる風土が構造的に「裁判所」の病巣になっていないだろうか。探ってみた。
  司法が民主主義から最も手が届き難い場所にあることが大きな原因になっていることは間違いない。そして、憲法及び法律にのみ拘束される筈が、保身という感情に拘束されやすいタイプかどうかだ。環境はその感情を醸成するに十分と考えられる。例えば、司法試験合格上位に位置しなければ、裁判官採用は難しいとか。法廷内では主権者より高い席に座る。権威の象徴とも受け取られる黒い法被。これらが特権意識を醸成、その隙間に入り込む感情。そのことが、いつの間にか憲法尊重擁護義務(憲法99条)を遠ざけているように映るのだ。傲慢な裁判官誕生である。
  司法を支えるのは「国民の信頼」である。裁判官は常にこの原点に立ち返ることが大事かと考える。「国民の信頼」が崩れたとき司法は崩壊する。議院内閣制の下、司法の崩壊は暗黒政治の到来を意味する。一人一人が自立してものを考えることの重要性は増すばかりだ。

                                                                               以 上