個の埋没は国を滅ぼす
〜寛容性ある組織、社会の構築が急がれる〜


 「混沌とした時代だからこそ、何があっても揺るがない普遍的な価値観を持ちたい。それが根っこにあれば、どんな時代になっても、ジタバタしないで生きていけるかも」。年頭に当たり、こんなメッセージを目にした。
  同感だ。加えて、私達は80年、90年を生きていかなければならない。心身共に鍛えておかなければならないのは言うまでもない。ところが、心、つまり考える力の衰えが顕著に映る。個人の埋没である。
  私は、伊藤塾塾長伊藤真氏の憲法を学んでぶれなくなった。時に50歳を過ぎていた。13条前段「全て国民は個人として尊重される」。そこで、多様性を認め合う寛容の精神の重要性を学んだ。また、人権と統治は目的・手段の関係にあることも学んだ。そして、戦前、日本では「個人は家族の中に埋没」、ドイツでは「個人は民族の中に埋没」。最近では「疑似家族」という言葉を初めて知った。様々な組織での関係を家族と見立てて、組織の為に犠牲になることを正当化する圧力。会社のため、町内会のため、クラスのため、チームのため、仲間のため・・・。
  個の埋没は、自立心の涵養を阻み「考える力」を奪う。そして、集団は時に人を変えてしまう。行動する際の価値観を「善悪」という客観的基準よりも、共同体において「迷惑をかけたか否か」という主観的基準に求めるからだ。これが個人の埋没の恐ろしさである。
  地下に氷河の水のごとき脈々と流れ続ける「疑似家族」。日本国憲法施行70年何も変わっていない。むしろ、国民の不安はこの流れを強めているように映る。
  そんな中、東京箱根往復大学駅伝青山学院大の3連覇。寛容な組織が選手の可能性を最大限引き出すために有効だと気付いた様だ。つまり、人間が最も活力を発揮する環境は寛容性ある組織、社会である。人間成長のためにも、この流れを加速させたいものだ。
  しかし、自民党憲法改正案24条は違う。個人を家族の中に埋没、何時か来た道をまた歩こうとしている。安倍政権はこれを新しい国造りと位置づける。過去から学ばず未来を語る安倍政権に危機感が募るばかりだ。戦後改革は新憲法の下、世界の民主国の基準に沿ったものである。国民は、その様な日本を破壊、「新しい国」を作りたいと考えているのだろうか。そんな声を国民からは聴いたことがない。
  安倍政権のいう「新しい国」は確かに新しい。民主国の世界基準では見たことがないからだ。自由、闊達な人間の活力を人類発展の礎にしてきた歴史に抗う「新しい国」である。誰が何の為にその様な国造りをしたいのか。一人一人がしっかい見極めないと大変なことになる。

                                                                               以 上