ポピュリズムとメディア
打ち寄せる波の如く、ポピュリズムの広がりを感じる。それを奨励するかの様なメディア。これでは、民衆は社会の遠景を見失う。
ポピュリズムは、政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法である。
確かに一時、ポピュリズムは民衆の感情を満たすに違いない。しかし、国民の考える力を奪い、利己主義的、排他的傾向を強める。これは独裁政治、つまり暴力と不自由に支配された悲惨な未来を作る肥えた土壌である。民主主義で民主主義を破壊したヒトラーを持ち出すまでもあるまい。これは、歴史の教訓である。
ところが、民衆の憤りや不安へ乗じて登場するのが威勢の良い輩。勇ましい言葉を弄して民衆を扇動する。民衆は、熟議とは異なる「決める政治」や「強いリーダー」に憧れる。これは、民主主義の熟成とは逆方向に位置するものだ。
不思議なのは、メディアがポピュリズムを奨励しているかの様に映ることだ。それともメディアは、民衆の感情に流されやすい体質なのか。小泉元首相以降、前大阪市長、現都知事の誕生はその典型例である。都知事選、「女一人で、自民と割って、孤軍奮闘」等という報道するメディア。これではメディアに対する国民の信頼は遠のくばかりだ。国がメディアによって滅ぶ。これは絶対にあってはならない。
市民は穏やかな生活の営みを望む。キーワードは「自立した市民」である。皆が憲法を学び、自立した市民としてものを考える様になったら、市民の穏やかな暮らしが蘇ってくる。憲法は輝きを取り戻し、生存権(25条)に灯りが灯ると考えられるからだ。三権分立崩壊を目の当たりにし、つくづくそう思う。
「偉大な人達は、アイディアについて話し、凡庸な人達は出来事について話し、狭量な人達は人々について話す【エレノア・ルーズベルト(米国第32代大統領夫人)名言集】。
以 上