いじめ根絶・教育改革必須
相も変わらず「隠蔽」という手段でいじめ自殺問題に対処する光景は人間が弱くなっている証かもしれない。そして、早々と設置される「△△△委員会」。いじめの認定は出来ても、自殺との因果関係は認定できるのだろうか。そもそも彼等に司法的役割を付与してもいいのだろうか。疑問である。
学校も社会の一部。治外法権が許されていいはずがない。12月21日付新聞の見出しが躍っていた。「LINEいじめ児童相談所に通告・浪岡中2自殺問題」。新聞によると、「県警はLINE上の中傷が反復継続していた点や、多数の生徒が閲覧出来る状態だった点を重くみた」とある。加害者の人権に配慮し、被害者とのバランスをとった措置は評価したい。再発防止へ抑止力になることは間違いないだろう。刑法を運用する役割を担う者として見逃せなかったに違いない。
いじめは加害者にとって自分の立ち位置を確保する手段である。彼等のまわりをのぞいてみるがいい。彼等も追い詰められているのだ。また、いじめられやすいタイプは、優しく自立心の弱い人間だ。
そこで、いじめ根絶に教育改革は必須であると考える。落ちこぼれを出さない教育。自立心を涵養する教育である。その為には、個を尊重し、お互いの違いを認め合う精神を醸成する環境を構築しなければならない。この底流にメスを入れずしていじめの根絶は難しい。
その為には、まず排除主義の温床である集団主義的発想からの脱却を図ることだ。少し考えてみよう。難度が高く危険な巨大組み体操をなぜ行うのか。それに保護者や地域住民がなぜ盛大な拍手を送るのか。
近い将来、学校側が「安全配慮義務」を問われてもおおかしくない。人権感覚があまりにも麻痺していると考えられるからだ。隠蔽体質が骨まで染み渡っているからだ。
以 上