憲法の根本精神に職責をかける

 民主主義で救えない人を救うのが司法の使命である。これを体現してくれた大飯原発3,4号機運転差止請求事件判決(2014年5月21日)。日常な空気に揺さぶりをかけられたような衝撃を受けた。「照らない灯火に灯りを灯す」。憲法の根本精神を説く語り口は熱く、考える筋道を示唆してくれた。
  しかし、閉塞感の漂う社会に希望と勇気を与えてくれた判決、魂が入るか否かは国民次第である。特に未来を信じ、未来に生きる青年達には是非読んで欲しい。以下は、判決の一部を抜粋したものである。

  【ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性を求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を問わず、全ての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟おいてもよって立つべき解釈上の指針である。
  個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においては、これを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権、とりわけ生命を守る生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害の恐れがある時は、人格権そのものに基づいて侵害行為の差し止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差し止め要請が強く働くのは理の当然である。】
  【原子力発電所に求められるべき安全性、信頼性はきわめて高度なものでなければならず、万一の場合にも放射性物質の危険から国民を守るべく万全の措置がとられなければならない。原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条)、原子力発電所の稼働は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。しかるところ、大きな自然災害や戦争以外で、根源的な権利が極めて広汎に奪われているという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故の他は想定し難い。かような危険を抽象的にでもはらむ経済活動は、その存在自体が憲法上容認できないというのが極論に過ぎるとしても、すくなくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差し止めが認められるのは当然である。】

  偉大な人達は、アイデアについて話し、凡庸な人達は出来事について話し、狭量な人達は人々について話す【エレノア・ルーズベルト(米国第32代大統領フランクリン・ルーズベルト夫人)名言集】。

                                                                               以 上